19.「カトリック新聞」文芸時評(1977-8年)



・「カトリック新聞」文芸時評(1977-78年)


1 キリスト教と文学雑感


 今年もまた各種の文芸誌、書評誌などで「今年の収穫」、「本年度文学べスト…」なる特集が組まれる時期がやってきた。本誌の文芸時評も武田氏、水谷氏と続いて今回が三回目(四回目は上総英郎氏)、運悪く私の番に当たってしまった。運悪く、と言ったわけは本来ならこのシリーズは九月に始まって私は十一月のはずだったからである。案の上、今年下半期の総括を、との編集者からの注文。やってみましょう、と気軽に引き受けたものの、日ごろじゅうぶんな目くばりをしていたわけでもないので総括などとてもムリだと、原稿用紙を広げてから気がついた。われながらずいぶんと間の抜けた話である。
 しかしそれよりも、そんな私がなぜ今回の文芸時評の計画(一年の間、四人の評者が順番に月一回書評を担当する)に参加したのか。下半期回顧の責任を逃げるようで心苦しいが、私なりにその理由を述べることによって、日ごろキリスト教と文学について考えていることを語ってみたい。
 武田氏を介してお誘いがあったときにも言ったことだが、具体的な書評欄設置がどうこうというより、武田氏をはじめとして他の担当諸氏と、たとえばキリスト教と文学、というようなテーマをめぐって意見を交換できるというのが何よりも魅力であった(残念ながら武田氏以外の諸氏とお話する機会はまだ持っていない)。というのは、私の不勉強かも知れないが、カトリック内部での独自な文学活動は意外と少ないように思われるからである。世間で認められたカトリック作家の数は多いが、内から育っていった作家、問題意識や関心を同じくする同人活動などは、ほとんどなかったのではないか。もちろん私は教会を内、世間を外というぐあいに簡単に色分けしているわけではない。
 歯に衣を着せずに言えばこういうことである。つまり従来、教会は(と、ひとまず暖昧に表現するしかないが)、内発的・能動的に文学活動を推進するというより、外発的・受動的にそれを受けとめてきたのではないか、ということである。出版活動にしても、独自な見解からその素質、才能を認めて “世に出す” というより、世に認められた作家なり著述家なりを改めて世に出す、というぐあいになっていなかったか。
 もしこれが、教会は内、世間は外というような子供っぽい境界意識を抜け出て、世界は教会、という一段と高い見地からのことであればあっぱれな見識であるが(それが無いわけではない)、しかし実情は残念ながら外発的、受動的のようだ。
 かつて文学者は、とりわけ彼が信者である場合には、教会や周囲からの冷たい視線を覚悟しなければならなかった。お前の書くものほどうも異端くさい、信仰の喜びが描かれてない、むしろつまずきの石ではないか。しかし時代は変わった。たとえばプロテスタントとの関係。まともに本年度下半期を総括するときには当然その休刊に触れなければならなかったが『季刊創造』のことがある。カトリックとプロテスタントの文学者が協カして雑誌を作るなんてことがかつて考えられたであろうか。ここで苦い気持ちで思い起こすのであるが、私の子供のころイエズスがイエスと書かれているだけで、まるで異端邪説の書を見るようにプロテスタント聖書を眺めたものだった。あの天扉の毒々しい赤よ!思えば大きな変化である。しかしこれはすべて文学的な素材ではないか。もし文学というものに時代を証言するという機能があるなら、第二バチカン公会議以後の奥深い地殻の変動がまだ描かれていないということは、大きな欠落ではないだろうか。
 文学者はかつてのように冷たい批判の目にさらされることは少なくなった。彼が世問的に認められた作家なら、たとえば教会の各種の文化活動に呼ばれて講演し、終わってからは熱心なファンに囲まれて茶菓子の接待を受けることもあろう。「先生、わたくし先生のお作を拝見して自分の信仰が強められるのを感じました。ところで…」。先生はそのとき奇妙なイラダタシサあるいはコソバユサを感じるであろう。あれ、本当に読んでくれたのかな。この人は私を “カトリック作家” としてしか見ず “一人の作家” としては見てくれていないのではないか。
 ところで、先日盲学生を混じえたある座談会に出席したときのことである。「盲人の方は目明きが見ることのできない深い内面世界を持っています」という一人の列席者の発言に対して、盲学生の一人が答えた。「そのように見られるとたいへん困ります。僕たちを盲人、身障者という類概念で見ないでいただきたい。欠点も弱点もある一個の人間として見てください」。その通りであろうと思う。
 差別にもいろいろあるが、類概念で一括されることほど当事者にとってつらい差別はないはずだ。なぜなら法律的人権、社会的権利以上に、人間にとって死活の権利は、自分が肉と骨を備えた一個の人間として認められることだからである。
 さて与えられた紙幅も残り少なくなってきた。今回は時評ならぬ雑感に終始したが、私の言わんとしたことを強いてまとめれば次のようになる。すなわちキリスト教文学、カトリック文学という類概念にとらわれることなく、しかも独自の視点から、内発的,能動的に文学創造、批評活動の場を作りあげていこうということである。
 この意味で言うなら、今年の六月に出た丹羽正篇『小川国夫の手紙(1951―1970)』(麦書房)は実に示唆的であり刺激的である。何よりもここには、独自な世界を切り開いていく若い魂の闘いがあり、その鮮烈な軌跡がある。無名時代の往復書簡ではあるが、それだけに内発的・能動的な生の息吹き、創造への衝動がたくまずして的確に表現されている。遠藤周作氏や井上ひさし氏の描いたカトリック青年の青春群像とは違った世界が造形されたことを心から喜びたい。

「カトリック新聞」、1977年12月4日号




2 みずみずしい大地性


  昨年の十一月四日、吉野せいさんが亡くなられた。享年七十八。一九七五年、第六回大宅壮一ノンフィクション賞、第十五回田村俊子賞を受賞した『洟をたらした神』の作者である。この作家の登場そして受賞は実に衝撃的な事件であった。
 その衝撃性は、もちろん作品そのものが持つ衝撃性であったが、同時に作者の環境の特異性から来るそれもかなり大きな比重を占めていたことは否定できない。福島県いわき市在住の “百姓バッパ”、開拓農民、七十歳を越えてから初めて筆をとったなどの事実が持つ意外性である。
 しかし今度、彼女の全作品を読み通してみて、後者すなわち作者の置かれていた環境から来る意外性が消えて、作品自体が持つ衝撃性がいよいよ鮮明に浮かびあがってきた。いやもっと正確に言うなら、意外性が作品自体に溶けこんでしまい、意外性を単なる意外性として感じなくなったと言うべきか。作品はいかに事実に密着しているかに見えても作品として自立するためには、そこに莫大な量の創造カが投与されていなければならない。
 つまり作品はあくまで構築物であり虚構でなければならない。彼女はいわば戯画的に自らを“百姓バッパ“と呼んだが、しかし、自らが農民作家と呼ばれることを激しく拒否した。“農民詩人”猪狩満直との交流を回顧した『かなしいやつ』に、次のような言葉が見られる。
 「なぜ農民という特殊な冠をかぶせるのだろう。農民詩人、農民××、もしこの冠で類別されるなら、工員作家、労働詩人、漁撈画家、行商歌人の名称が並列されてもいいではないかと痴呆(こけ)なりの思案をうかべる。ことさらな冠の中には、何か泥まみれの不様に悲しい、尻尾の形がつきまとうような気がしてならない。不似合いな場所からあげる舌たらずのみじめなうめきが特別に抽出されて、特殊扱いされていやしないか。逆にいえば農民といううそ寒い溜り場に掃き寄せられて、ため息まじりの眼鏡で僻轍(ふかん)されてるしがないひがみが伴うためか。何となく私には避けて通りたい言葉のようで困る」。
 ところで先ほど彼女の全作品と書いたが、それは受賞作『洟をたらした神』、受賞後の諸作品を収めた『道』、そしてこれら二著の先駆をなす『暮鳥と混沌』である(いずれも弥生書房刊)。そして彼女がたんなる “百姓バッパ” でなかったこと、潜在的には生涯作家であったことを、われわれはこの『暮鳥と混沌』とによって知ることができる。
 これは詩人山村暮鳥と彼女の夫、詩人三野混沌(本名、吉野義也)との希有な、そして美しい交流を描いた作品であるが、そこにつづられている彼女自身に関する叙述から、彼女が混沌と結婚する前、いっぱしの文学少女であり、小説を書いたこともあるなどのことが知られる。落魄の詩人暮鳥と若き開拓農夫混沌の交情は実に感激的であるが、しかしそれにもまして美しくもまた心うつのは、混沌とせいの出会い、そして結婚のいきさつであり、そしてこの若い二人が開拓農として日々の労苦をともにするその生活の厳しさ哀切さである。
 暮鳥と混沌の交流が主題となっているためか、混沌とせいの出会い、そして結婚生活はごくつつましい筆致で描かれているだけだが、それだけにいっそう、この二人の男女の姿は正確な像を結び、読む者にさわやかな印象を刻みこむ。この古風で一種運命的とも言える一対の男女の物語は、どんな恋愛小説、青春小説よりもみずみずしい叙情性を感じさせる。
 だがこの『暮鳥と混沌』はいわば前奏のようなものであり、彼女の胸深く秘められたマグマが奔出するのは『洟をたらした神』の諸篇においてである。これらの作品の、いま土から掘り出されたばかりのように新鮮で、骨太で、しかもいぶし銀のような文章の見事さは、諸家によってつとに指摘されてきた通りでいまさらつけ加えることはない。表題作の『洟をたらした神』もいいが、いくど読んでもその度に胸をつかれ、眼の前が涙でかすんでしまうのは、極貧のため医者を呼ぶことが遅れ、わずか八か月の短い生涯を終えた次女リーコの死の顛末を描いた「梨花」であろう。
 この作品が、あるいは梨花の死の体験が、吉野せいの創作の中心にあることは、死後遺品の中から見つかった当時の日記を見ても明らかである(二月十日付朝日新聞参照)。殺したのは自分だ、という罪悪感が彼女の創作の根底にある。梨花の死後約一か月半後の記述に、「梨花を思ふとき創作を思ふ。梨花を失ふたことに大きな罪悪を感じてゐる自分は、よりよき創作を以って梨花の成長としよう。創作は梨花だ。書くことが、すなわち梨花を抱いていることだ」とある。
 『洟をたらした神』が与える感銘は、社会の底辺からの叫びたるプロレタリア文学、あるいは激しい農作業と困苦からの叫びたるいわゆる農民文学の与えるそれとは少しばかり位相を異にしている。つまり社会悪、社会的不正に対する抗議が主調音ではないのだ。そこにあるのは何よりもまず、おのれ自身に対ずる修羅の意識である。
 「憎しみだけが偽りない人間の本性だと阿修羅のように横車もろとも、からだを叩きつけて生きてきた昨日までの私の一挙手一投足が巻き起こした北風は、無辜な太陽の暖かさをさえ、周囲から無惨に奪い去っていたであろうことを思い起こし、今更に深く恥じる」(「老いて」)。
 ここで想い起こされるのは同じ東北が生んだ詩人宮澤賢治であろう。 「ああかがやきの四月の底を/はぎしり燃えてゆききする/おれはひとりの阿修羅なのだ」(『春と修羅』)。しかしこの修羅の思想は同時に「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(賢治『農民芸術概論綱要』)との激しい希求でもあるがゆえに、なまなかなヒューマニズムを越え出る。賢治との類似性はこの修羅の思想ばかりではない。
 この両者には思想性と想像力に支えられた風土性が、風景の創出がある。わが国のカトリック文学に限らず神学に決定的に欠けているのは、この風土性あるいは大地性との関わりである。これについては稿を改めて論じたいが、ともあれわれわれはいま、賢治のイーハトーボ同様、吉野せいの菊竹山がこの涙の谷の一里塚として確実に定着したことを確認しておきたい。

「カトリック新聞」、1978年4月9日号


3 新ビジョン創造の気運


 先々月の本欄で武田友寿氏は『季刊創造』の終刊に触れて次のように書いておられる。
 「日本のキリスト教文学――私にその文学は現前していた――それが異様に高揚した豊かな時代があった。しかしいま、その時節はすぎたのではないか――中略――彼ら「キリスト教作家」はいま、新しい調べをもとめて「私」の世界に向かっているようだ」。
 「文芸時評」は、四人の評者がそれぞれ三回を受け持って一年間という約束であったから、今回が私の最後の担当となる。最初の回で、「他の担当諸氏と、たとえばキリスト教と文学、というようなテーマをめぐって意見を交換」したいといっておきながら、その後おもに私自身の怠慢から、何ら積極的に働きかけることをせずに今日まで来てしまった。その穴を一挙に埋めるというわけにはいかないが、少しはからみあう(文字どおりカラムことになりそうだが)文章を書いておきたい。
 さて、その『季刊創造』の創刊とぼぼ同じころ、「地中海学会」という奇妙な名前の学会創設の機運が起こっていた。従来のタテ割り、国別のヨーロッパ研究の行きづまりを打開するために、地中海という共通の場を核に、いうなれば学際的・総合的にヨーロッパを考え直してみようではないか、というのが、その発端であった。ほんの行きがかりから、発会のための準備を手伝わされることになったが、そのとき、『季刊創造』との不思議な符合に驚いたものだった。
 大げさにいうなら、「時が満ちる」のを感じたといってもいい。つまりあらゆるものが従来のせまいワク組ではどうにもならぬ地点にたどりついた、人びとは意識的にせよ無意識的にせよ、すべてを包含する新しい視点を模索しているのだ、そう思ったのである。その予感はまちがっていなかった。しかしその後の進展は期待をはずれた。
 『季刊創造』の方は主として出版元の経済的理由から終刊となったが、「地中海学会」のほうは赤字をかかえながらも、この六月で二年目に入った。まがりなりにも事務局に名を連ねながら無責任な発言とクレームをつけられるかも知れないが、正直いって私は学会の存続に関してかなり悲観的である。それはそれぞれ既存の学会の行きづまりという、いねば否定的契機から集まったわれわれが、いまだにそれを肯定的・積極的なそれに転換できないでいる、と思われるからである。まったく新しいビジョンの創造が必要なのにそれに成功していないのだ。
 個々のものの寄せ集めからは、けっして新しい総合は生まれない。ジグソーパズルの一片一片を意味ある全体に並べかえるには、個々のものにとらわれない新しいビジョンを必要とする。いや、もっと適切なのは「かくし絵パズル」のたとえだろう。「この絵には木の繁みと一頭の鹿が描かれています。しかし実は一人の狩人がこの鹿を鉄砲でねらっているのです。さてどこに狩人が隠れているでしょう」。このときわれわれは通常の見方を捨てて別のまったく新しい「視点」を取らなければならない。従来の見方がまちがっているというのではない。しかし新しい現実を見るためには、新しい視点を必要とするのだ。
 たとえば「地中海学会」の場合、その地中海はジグソー・パズルの盤であって、それ以上でも以下でもない。重要なのはそれを見る《私の》視点である。準備のための集まりで発言を求められ「私は地中海文化に関してはズブの素人ですが、それぞれ専門分野でりっぱな業績をあげておられる諸先生方がなぜ地中海にかかわってこられたのかを、いささか斜めにかまえたところから勉強させていただきます」と述べた。真意を理解されず、斜めにかまえたポーズだけが浮きあがって見えたのではないかと恐れる。
 しかしおよそ人間にかかわることで「私」抜きに、もっと正確にいうなら、「私の生」抜きに起こるものがあるであろうか。スぺインの哲学者オルテガは言う。「あるものの認識がじゅうぶんなものであるためには――すなわちじゅうぶんに深く、そして根本的であるためには――われわれの生という、そのあるものが登場し、姿を現し、湧き出し、突出する場所、つまりそれが存在する世界の内部に、その位置と方法とを精確に見定めることから始めなければならない」。なぜなら、あらゆる実在がわれわれにとって実在であるためには、なんらかの形でわれわれ自身の生という、ふるえあがるような境界に現れなければならないからである。
 さらに言うなら、神ご自身も《われわれにとって》神であるためには、この「私の生」の中に登場しなければならない。《私にとって》私抜きに神は存在しないのである。べつだん私は奇をてらって逆説めいたこと、異端めいたことを言おうとしているのではない。まったく当然のことを再認識しているにすぎない。
 しかしわれわれはいかにしばしば、このごく当たり前の事実を忘れてしまうことか。実は自分の願望にすぎないものを、いかにしばしば「これは神のみ旨です」といい切ってしまうことか。
 与えられた紙幅が尽きそうなので、ここで唐突だが冒頭の武田氏の言葉にもどる。日本のキリスト教文学が異様に高揚した豊かな時代があった、というご意見に対して、私はいささか見解を異にする。たとえとして出された遠藤周作氏の諸作品に関しては別のところで舌足らずながら触れたことがあるので繰り返さないが、一言でいうなら、確かに見えているはずの新しいビジョンを徹底させなかったことに対する不満である。
 古いワク組の中での一部修正にとどまって、ワク組全体の転換にはいたっていないことへの不満である。キリスト者作家たちが新しい調べをもとめて「私」の世界に向かっている、というご指摘に対しては、もしそれが「私の生」に根ざす真のラディカリズム(根源主義)に向かっているなら、これ以上に喜ばしい事態はないと考えている。

「カトリック新聞」、1978年8月13日号