内面に向かっての沈潜
スペイン近代からわれわれは何を学ぶことができるか、ということに関して、かつて次のように書いたことがある(メネンデス・ピダル著『スペイン精神史序説』、法政大学出版局、訳者あとがき)。
- 従来のわが国の西洋理解は、もっぱらヨーロッパ先進諸国に焦点を合わせてきたが、しかし「ヨーロッパ」そのものの十全なる認識のためにも、近代ヨーロッパの廃嫡された長子とも言うべきスペイン理解は不可欠ではないか。
- ヨーロッパ近代に対して、わが国とはまったく対照的な姿勢をとったスペインを考察することは、日本近代化の「ゆがみ」を内省する手がかりににならないか。
- スペインの辺境性とわが国のそれとの比較対照。
- 自国の「存立」をめぐる執拗かつ持続的な「こだわり」を他山の石とする。
そしてこの第四点に関して、以下のように補足している。
「われわれがこうしたスペイン的生のあり方から学ぶべきものがあるとしたら、まさにこの根源的な問題に対する執拗なこだわり方、その肉迫の仕方であらう……日本にも確かに過去においてほぼ等間隔の周期(山本新氏によれば二〇年サイクル)をもって欧化主義と国粋土義の波が訪れている。しかしそれが表面的なもの、多くは単にジャーナリスティックな関心を越え出ないという現象を考えてみるとき、われわれは自分たちの内部に何か根本的な脆弱さが巣くっているのではないかと疑ってみるべきだろう」。
山本新「二〇年サイクル」説をどこから引用したのかは記憶にない。しかしそれはともかく、今から一三年前に書いた拙文を引き合いに出したのは、そこで言っている「何か根本的な脆弱さ」が何に出来するかについて二、三覚え書きするためである。ところでウナムーノなど「九八年の世代」が、スペインの本質をめぐってそれこそ執拗な思索を展開したことは有名だが、彼らの姿勢にはそれまでの論者たちの姿勢とは明らかな違いが見られる。つまりそれまでの伝統主義(あるいは国粋主義)と進歩主義(あるいは欧化主義)という不毛な対立を越えて第三の道を模索したことである。それを分かりやすく図式化すれば、伝統主義者たちの「過去に帰れ!」、進歩主義者たちの「前進せよ!」に対して、彼らが「沈潜せよ!」という姿勢を打ち出したことであろう。
しかし何に向かっての沈潜か。まずは歴史の内面に向かっての沈潜(ウナムーノの言う《内-歴史》、次に自然の内面に向かっての沈潜(風景の創造)である。
内-歴史に沈潜する一つの方法として、たとえばウナムーノの場合、ドン・キホーテの姿が浮上してくる。なぜなら彼にとって民族のうちに眠っている無意識的なるもの、内-歴史的なるものは言語のうちに具体化され、そしてその民族の意識化されたものは文字の中に具現されているからである。テレーサ・デ・ヘースやフワン・デ・ラ・クルスなどの神秘思想もまたこの線上に現れる。わが国にもたとえば津田左右吉の『文字に現はれたる我が国民思想の研究』(一九一六-二一)を嚆矢として、文学の中に日本文化の特質を探ろうとするさまざまな試みがなされてきた。しかしわれわれが果たして自前の言葉でおのが存立の問題を考えられるかどうかとなると、残念ながら「否」と答えざるをえまい。ドイツ観念論を初めとして現代の構造主義あるいはポスト・モダニズムに至るまで、滔々たる思想の流入があったが、われわれはいまだにおのれの内面を語るにふさわしい「ことば」を手にしていない。「ヨーロッパ的でも近代的でもない言語を用いて近代ヨーロッパ的な考え方をしようとしても、それが何の役に立つだろうか」という、一種居直りとも言える「踏み留まり」が必要なのではなかろうか。
次に内面への沈潜は風土的側面において行なわれる。「九八年の世代」がカスティーリャの風景を発見というより創造したことは有名である。つまり彼らは自分たちを取り巻く自然的環境をたんなる自然としてではなく「魂の風景」として捉えた。しかし翻ってわが国の場合はどうか。明治以来の自己措定の試みの中で、たとえば第一期の日本回帰に見られる志賀重昂の『日本風景論』(一八九四)や徳冨蘆花の『自然と人生』(一九〇〇)はたんに地理学的自然描写あるいは詠嘆調の自然讃歌ではなかったか。そして第二期日本回帰(昭和一〇年代)に現れた日本浪漫派の風景描写はあまりに審美的(古美術的?)かつ歴史的ではなかったか。
もちろん和辻哲郎の『風土』(一九三五)を忘れることはできないが、しかしこれは「人間存在の構造契機としての風土性」を標榜しているにもかかわらず(あるいはまさにその理由から)風土的もしくは地理的な決定論を内包していなかったか。私見ではほとんど唯一の例外が宮沢賢治である。たとえば次の詩は、ウナムーノあるいはA・マチャードの詩と同質の「魂の風景」を歌いあげている。
そらの散乱反射のなかに
古ぼけて黒くゑぐるもの
ひかりの徴塵系列の底に
きたなくしろく澱むもの(「岩手山」)
しかしいずれにせよ、以上二つの方向への沈潜が真の有効性を持ち持続性を発揮できるのは、結局はおのれ自身の内面へ向けての沈潜を措いて他にはない。つまり以上二つの沈潜(オルテガの言う《自己沈潜》は、究極的な自己定位のために必要な手段に過ぎないのだ。だがこの難問に触れるにはすでに紙幅が尽きてしまった(とは、もちろん遁辞である)。
「山本新研究」第十二号
一九八七年四月五日