19. 猫まみれ (2000年)


猫まみれ


           あらゆることは記録しておかねばならぬ。
           そうしなければ全てが失われる。     
                        ユダヤの古諺



毎日が祝日


 朝起きるとベッドのすぐ側の雨戸を開け、二階から下をのぞくのがこのところの日課である。真下の玄関先のタイルの上で猫の御一家が食事中だったらラッキーというもの。ゆっくりその様子を眺めさせてもらう。実に楽しく幸福な気分にさせてもらえる。母猫は三毛の日本猫(三毛は日本猫だけの呼称なのかどうかは知らない)、その母猫から絵に描いたようにきちんと特徴を受けついで、子供たちはまず彼女より少し黒が少ない三毛の子、右耳の付け根部分と尻尾のところだけが黒とネズミ色であとは全身白の子、そしてものの見事に全身黒の子(地方によってはカラス猫というらしい)の合計四匹の猫たちである。だから名前もそのままずばり、おかあちゃん、ミケ、シロ、クロと名付けた。縁の下(といっても母屋に付け足したプレハブのサンルームの下だから風通しはいいはずだが)や車の下に寝て(暑いからか、今のところ玄関先に作ってやった小屋に寝ている気配はない)、境涯としては惨めとしかいいようのない猫の一家(母子家庭)だが、彼らのなんと上品で優雅なこと。朝、縁の下から出てきてまずすることは、大きく弓形に躰を伸ばし、そして互いに身を擦り寄せての朝の挨拶である。母猫の場合はさらに、次々と寄ってくる子猫たちの躰をなめてやることが加わる。外猫なのに彼らは実におっとりしていて、食物で争っているのを見たことがない。食事時、おかあちゃんは当然のように真っ先に皿に近づいて食べ始めるが、子猫たちはというと、だれか一匹がおかあちゃんと頭を寄せ合って食べ始めても、あとの二匹はまるで順番待ちをしているかのように、近くで背伸びしたり顔を洗ったり(手で顔のあたりを擦ることだが)ひとつもがっつく気配を見せない。
 もちろん朝以外にも、一日何回となく二階の窓を開けて猫ウォッチングをする。初めのうちは窓の開く音にも鋭く反応して、蜘蛛の子を散らすように逃げていたが、最近は音を聞きつけても逃げないで、しっかり上を見上げる。ミケとシロは庭の植え込みあたりにいてもすぐそれと分かるが、クロの場合はよほど目を凝らさないと、まるで影そのもののように周囲に溶け込んでいて見分けがつかない。猛暑の日中はさすがにぐったりと敷石の上にへたりこんでいたりするが、朝夕のしのぎやすい時間には彼らの遊びが始まる。たがいにじゃれ合ったり、虫を追いかけたり、何が面白いのか小石をはじき飛ばしたり……ともかくなんでもが面白くてしょうがないといった様子である。目先のことしか考えない(?)、という意味で彼らの生き方は刹那主義かも知れないが、人間の場合は「カルペ・ディエム」(「その日をむさぼれ」、ホラティウス『歌章』、第一巻、二ー八)という言葉にもあるように、生は短い、だからその日その日を大切に、という、よく言っても意識的かつ功利主義的で、その底に悪く言えばみみっちい心根、意地汚さが透けて見える。つまり残りの日々を数えての一種の無念さ、やるせなさが見え隠れするのだが、しかし猫たちのそれにはそんな計算はまったく入っていない。そこには純粋な喜び、つまりぎりぎりの根っ子のところに生得的(?)な感謝の念がある。理屈抜きに嬉しくてしょうがないのである。 ああ、彼らのようにその日その時を精一杯生きられたら。彼らにとって毎日が遠足、毎日が運動会、祭り、祝日、休日なのだ。



三匹の子猫たちとの出会い


 彼らとの出会い(おかあちゃんとではなく子猫たちとの)の日付は、珍しく手帳に記録している。何か虫の知らせがあったのか、そのころ(つまり六月下旬)グレと最初に出会ったのは去年のいつ頃だったかしきりに思い出そうとしていたこともあって、小猫たちとの出会いを記録しておこうと思ったのだ。手帳を見ると、それは六月二十日、木曜日(毎週非常勤で都心まで出かける日だ)、たぶん曇り日ではなかったか。最初に見たのはクロちゃんであった。朝、新聞を取りに玄関のドアを開けたとたん、ドア脇の猫小屋の上からなにやら黒い小さな塊が飛ぶように下りていった。目を凝らして植え込みあたりを探すと、小さな黒い子猫が可愛らしいお尻をもこもこさせて今しも縁の下に逃げ込むところだった。真っ黒だからのぞき込んでも闇の中に紛れてまったく見えない。 その日の午後遅く、二階の窓から庭先を見ると、敷石の上でおかあちゃんの乳房にすがったまま昼寝をしている三匹の赤ちゃん猫の姿が見えた。合計三匹の子猫であることがそのとき初めて判明した。 おかあちゃんのお腹が日増しに大きくなってきていたことは知っていた。食事時になると思いっきり哀れな声で餌を要求するので、そのたびごとにお腹の子供たちの分までという気持ちで、十分な量の餌を与えるようにはしていた。何日間か姿を見せない日が続き、次に来た時は、お産が済んだのか、お腹がぺちゃんこになっていた。そのころは、つまり四月から六月にかけては、グレが家族の一員として定着(?)していたので、おかあちゃんにはできれば他のところで子育てをしてくれまいか、連れてきたら連れてきたでしょうがないが、と思っていた。しかしぺちゃんこのお腹になってからだいぶ日にちが経つのに相変わらずひとりで来るので、本当に子供を産んだのだろうか、産んだとしても死産ではなかったか、などと思い始めた矢先だった。グレが死ぬちょうど一週間前にお披露目に来たことになる。この家の住人が自分たちをいじめたり追い払ったりしない良い人たちだから、縁の下でも借りて子育てをしようという気になったのだろうか。
 しかしいったいどこで出産して、どこで育てていたのだろう。初めから縁の下にいたとは考えられない。隣接する竹藪の中だろうか、それともどこか近所の家の物置きにでも隠れていたのだろうか。だがどこで育てていたにしても、生後まもない小猫たちに、人の姿を見たら全速力で逃げることなど、いつどのように教えたのか。あれから二月以上経過した今では、小猫たちがこちらの姿を見て逃げることはさすがになくなったが、それでも今のところ近づけるのは一メートルが限度である。手を伸ばそうとすると、その気配を察知して、すっと遠ざかる。 家の中で産まれた猫の子にそんな習性などないのでは、と考えると、不憫に思えてくる。野良として産まれた子には、すでに本能的にそうした警戒心が刷り込まれているのだろうか。目がまだ開かない時ならいざ知らず、しだいに目が見え、周囲を動き回るにつれて、おかあちゃんはどれだけ心配したことか。そしてこれから無事成長していくには、絶対に人を信用してはいけない、人の姿を見かけたらともかく逃げて姿を隠すこと、などいったいどう因果をふくめ、どう説得したのか。そんなことを考えていくと、躰もそう大きくなく、顔も決して可愛いとは言えないおかあちゃんが気丈で偉い猫に見えてくる。 ところでそのおかあちゃん自身は産まれ落ちたときから野良だったのだろうか。あるいは一度は家猫であったのが、事情(どんな?)があって捨てられ、それから人間不信に陥ったのか。最初の出会いから一年を越えた今では、餌をもらう時にこちらのふくらはぎのあたりに軽く躰をすり寄せて一種の甘えをみせることがあるが、しかし基本的には絶対に気を許していないところをみると、どうも最初から野良として生きてきた可能性の方が強い。一年以上も経つのにどうしてもなついてくれない。おかげで小猫たちも未だに抱き上げることができないではないか、とは思うが、しかしこの母猫の警戒心、一瞬の気の緩みも見せない用心深さあってこそ、小猫たちの今日があるのは間違いない。



グレとダリとの出会い


 そう言えばグレの姿を最初に見たのも、記録を残していないので正確なことは言えないが、去年の今頃(八月末)、そして躰の大きさもミケたちと同じくらいのときではなかったか。それまで猫にはまったくといっていいほど関心がなかった。申し訳ないが(誰に?)私にとって猫は雀のような存在だった。つまりそこにいるにはいるが、ほとんどそれとして意識していないのである。ところが昨年の八月末ころ、視界の隅に三匹の猫たちの姿がひっかかっていたことは辛うじて思い出すことができる。車置場のあたりに一匹の母猫らしき猫と、二匹の当歳の小猫たちの姿である。またそのころ、近くのゴミ捨て場前の路上に小さな猫の死骸を見たような気もする。小さいながら母猫といっしょにゴミをあさっているうちに車に轢かれたのではなかったか。しかしそのことが記憶の中にきちんと留められていないのは、繰り返しになるが、そのころの私(そして私たち)にとって、それほどまでに猫は関心の外にあったということである。轢かれた子がおかあちゃんの子供だったかも知れないのに。 だんだんと彼らの存在が意識されていくにつれて、まず不思議に思ったのは、小猫のうちの一匹が明らかに他の二匹と毛並みが違うことである。白と茶の日本猫は間違いなくおかあちゃんの子である。しかし銀色に近いねずみ色の猫はどう見ても洋猫(?)である。おかあちゃんの子であるはずがないし、ダリ(グレもダリも家内の命名である。グレはグレイから来たらしいが、ダリは名付け親本人も理由なくつけたらしい)の妹であるはずもない(ダリが雄で、グレが雌であることはずっと後になってから知った)。それがどうして一緒に暮らすようになったのか。 その経緯を彼らから(今ではもうおかあちゃんしか残っていないが)聞き出すわけにもいかないが、しかしともあれ、おかあちゃんがグレを継子扱いにもせず(もしかするとお乳を呑ませていたのかも知れない)よく面倒をみてくれたことは事実である。こんなことは猫の世界によくあることなのだろうか。しかしそれ以上に不思議でならないのは、ダリが血の繋がらないグレをどうしてあれほどまで可愛がり世話をしたのか、ということである。
 仲が良いという言葉ではくくれないほど、この二匹は影の形に添うごとくいつも一緒であった。秋風が吹き始め、寒がりの猫たちにとって厳しい季節がやってくると、彼らはさらに身を寄せ合うふうであった(おかあちゃんは食事時にしか現れなかった)。夜はダリがグレを抱っこして寝ているらしかった。小屋は二階建て(?)で、出入り口は開閉自由のボール紙製のドアであるが、それぞれの部屋は二匹が寝るとどうしても少し手狭になる。だから時おり、ダリのお尻や後ろ足がドアの外にはみ出しているのが見られた。
 秋から冬へとさらに寒さが厳しくなると、古毛布や古セーターでは間に合わず、毎晩小屋の中にホカロンを入れてやった。はたして彼らがそれから暖をとっていたかどうかははっきりしないが、翌朝の毛布などの形からその上で寝たのではと推測できた。
 ところがそれほど仲の良かったダリが今年の三月初旬、忽然と姿を消してしまったのである。そのころになるとグレは時おり私たちに抱かれて家の中に入り、何時間かを過ごすことがあったが、ダリは絶対に家の中に入ろうとしなかった。無理に入れたりでもすると、玄関の土間のところにうずくまって悲しげな声をあげた。普段はりりしく活発なダリがとたんに臆病な様子を見せることに驚いたが、野良にとって閉ざされた空間がどれほど恐怖の対象になるのか、その時初めて知った。以後彼を家の中に入れることはあきらめた。しかし二匹の猫のそうした生活習慣のずれ・違いが、今から考えると後のダリの家出・失踪の引き金になったのでは、と思われる。というより、グレが家猫になれるチャンスの邪魔にならないように、潔く独立を選んだ、身を退いたと思いたい。とここまでくれば身贔屓も極まれり、と失笑を買いそうだが、それほどダリは侠気のあるかっこいい猫だったということである。



グレのアルバムから


 ネコノ行動圏ハ大キク三ツニ分類デキル。一ツハ他ノねこノ進入ヲ許サナイ絶対ノ自由圏デ、自分ノ飼ワレテイル家トソノ庭ガ範囲デアル。絶対ノ自由圏カラ半径数百めーとるハ狩猟圏デ、狩リ場、見張リ場、休憩所ガ含マレ……狩猟圏ノ外側ニハ普通ハ立チ入ラナイ……

「小学館日本大百科全書」



風に乗るグレ


 ベランダの椅子に坐った娘の膝の上でグレがしきりに猫じゃらしにじゃれている。猫じゃらし先端の羽根の赤と娘のジーパンの青、そしてまるで風に乗って飛んでいるかのような横っ飛びの姿勢のグレの銀色が、秋の光の中で交錯し乱舞している。 なんという軽さ、グレを初めて抱いた時の感触がそれであった。形(なり)はそれなりに大きくなってきたが、抱いた時の軽さが予想以上で、その落差が「軽い」と思わせるのであろう。前足を大きく広げて、ジャブのような動きをしたと思うと、次の瞬間仰向けざまにまるでむささびのように躰全体を広げる。本当にむささびのように木から木へ飛ぶこともできそうである。



屋根の上で夕陽を見送る二匹の猫


 ダリとグレは松の木を伝わって玄関の屋根に登るのが大好きだった。特に夕刻、太陽が西の空に沈むころ、二人寄り添うように坐って夕陽を見送る後ろ姿が何度となく目撃された。自分たちの縄張りが見はるかせるところで歩哨に立っているような気になっていたのだろうか。そう言えば、おかあちゃんと三匹の猫たちも、屋根の上からではなく、わが家の敷地の突端部分(車置場のはずれ)から通りの方を監視するのが好きなようである。外敵の進入をいち早く察知したい思っているのだろうか。



狩人グレ


 台所横からすぐ始まる竹藪の中を透かし見ると、大きな木が横ざまに伸びているのが見える。先端部分は竹林を突き抜けるくらいの大きい木である。何という名の木か知らないが、少し傾いだところが狩人グレの狩猟本能を刺激するらしい。猛スピードで駆け上がったかと思うと、次の瞬間、ころげ落ちるような勢いで一気に下りてくる。時には小鳥を捕獲するようなことがあったのかも知れない。 犬と猫の習性や骨格がまるっきり違うことは知っていたが、しかし躰そのものがこんなにも違うことを、グレを抱いてみて初めて実感した。特に今年八歳になるダックスフントのクッキーと比べれば(もっとも彼は下半身が少し不自由だからでもあるが)、違いは一目瞭然いや一触愕然である。つまり犬が茶筒とすれば、猫は全身がバネなのだ。
 そういえば、抱かれた時もソファーに寝そべっている時も、グレがしきりに前足でグーチョキパー(正確にはグーパーだが)のようなしぐさをしていたことが思い出される。起きている時だけでなく、寝ている時も狩猟の夢を見ているのか、ひんぱんにグーパーを繰り返していた。



曲芸師グレ


 二階の居間の外の手摺の上を、絶妙なバランスを取りながら綱渡り師よろしくグレが歩いてくる。外から家の中に入るには、さしあたっては松の木を伝ってまず玄関の上の屋根に登り、それからベランダに移って、そこから手摺に飛び移って家の中の人間に鳴いて知らせるしかない。手摺といっても幅二センチばかりの鉄の手摺である。雨の時などすべりやすくなっていて、見ているだけでこちらがヒヤヒヤする。一度どさっと音がしたのであわてて窓を開けてみると、手摺の下の藤棚にぶら下がっていたこともある。窓の外まで来て、小さな声で鳴くだけなのだが、家人はだれもがその小さな声を不思議と聞きつけた。
 とにかくグレは実に度胸のある子で、二月に避妊手術をしてもらったとき、そのあまりの度胸のよさに獣医さんも驚嘆したそうだ。半野良のくせにソファーなどの上で寝る段になると、両手両足をまるでアジの開きのように大の字に広げ、矢でも鉄砲でも持ってこいとでも言うように、まわりでどんなに動き回っても大声をだしてもぴくりともしないで眠り続けた。 しかしその大胆さと思いきりのよさが(女の子なのに)、あの最後の惨劇に繋がっていったように思えてならない。



グレ昇天


 どうしてあの夜、グレは道路を横切ろうとしたのか。彼女の行動半径がどの程度のものだったのか、もちろん知る由もないが、しかし車の行き交うあの道路をそれまで時おりでも渡っていたとは思えない。あの夜、なにか渡らざるをえない強い動機があったのでは。考えられる一つの可能性は、あの夜グレが二月以上も姿を見せなかったダリの姿を見かけ、彼の後を追って道路を渡ってしまったのではないか、ということである。家から竹藪あるいは空き地を抜けて五十メートルほど行くと大きなバス通りに出るが、もしかするとその向こう側のどこかの家にダリが住みついていて、そのダリを見かけたグレが思わす後を追ったのではないか。いや、そんな近所にダリが住んでいるはずはない。グレがあの夜、闇の中にまざまざと見たのはダリの幻覚ではなかったか。
 あの夜、用便のためグレが家を出たのは、十一時過ぎであった(ダリがいなくなってから、原則的にグレは娘の部屋で寝るようになっていた)。いつもの通り、あのバレリーナのような優雅な後ろ姿を見せて夜の闇に消えていったそうである。妻は今でも、「あの時おしっこに外に出さなかったら、グレはまだ生きていたのでは」と嘆く。しかしそんなことはないだろう。例えば家を出てから機械仕掛けのように同一のスピードで同一の軌道を移動するのだったら、そのとき少し出発を早めるか遅らせるかしたら、車に轢かれることはなかったと言うことはできる。しかし家を出た瞬間、どちらに行くか、どのスピードで走るか、はまったく偶然の連鎖にほかならない。だが、愛する人を車や電車、あるいは船や飛行機の事故で失った人は、何千何万回、いや一生死ぬまで「もしやあの時……」という考え方の呪縛から抜け出せないであろう。
 犬はヘッドライトから逃げるが、猫はむしろ飛び込んでしまう、と聞いたことがある。たぶんグレも道路の真中で突然自分の全身を射た光の洪水の中で、一瞬目が眩み、身動きできなくなったのではないか。痛みや恐怖を感じるより先に、炸烈する光の氾濫の中に巻き込まれたのではないか。痛みなどもしあったとしても一瞬のことではなかったか。私たちは必死にそう思いたがっている。 
 あの夜、とうとうグレは帰らなかった。何度か庭先に出て、闇の中を透かし見ながらグレの名を呼んだが徒労に終わった。翌朝、どこにもグレの姿はなかった。 八時ころ、いつものように職場に向かう娘がバス停近くの路上にグレらしきものの轢死体を見た。一瞬目の前が暗くなり足が震えたが、そのままバスに乗って出勤した。両親のショックを考えて、絶対にこの事態を知らせまいと思ったそうだ。グレの遺体をあのまま路上に放置するのは忍びないとは思ったが、しかし路上に散乱する皮と肉の砕片はもはやグレとは言えまい。
 しかしその後の経過は、後から考えると不幸中の幸いとしか言いようがない偶然が重なった。つまり娘から遅れること半時間後、今度は近くの職場に車で向かう妻がグレらしき轢死体を目撃したこと、またそれがグレの遺体であることを遺体収容時に首輪によって確認できたことである。両方ともまったくの偶然である。 路上にグレらしきものの轢死体を見た時、もしやと思いつつ、後ろ髪を引かれる思いで現場を通りすぎ、心ここにあらず、といった状態でともかく用事を済ませたそうだ。しかし小一時間後、再びその轢死体の側を通ったとき、濃密な磁気のようなものがあたりに立ち籠めており、それがグレであるとの確信が天啓のごとく全身を貫いた。
 家に帰ってきた妻の顔を見た瞬間、最悪の事態を覚悟した。すぐさまビニール袋と塵取り、そして火挟みを持って二人で現場に駆けつけた。行き交う車がただならぬ二人連れを見て徐行あるいは蛇行するなか、たんなる肉片と化したグレの遺体をビニール袋に入れた。いやこれはグレではない。もはやグレとは絶対に言えない。グレは昨夜、光の微塵の中に天に登っていった。ここにあるのは抜け殻にすぎない。でもそれは悔しいけれど紛れもなくグレの抜け殻なのだ。
 遺体(というにはあまりにも無惨な姿だ)は、八年前に死んだアイヌ犬ララの隣りに埋めた。一回分の食事とお気に入りだったネズミのおもちゃも一緒に入れた。
 前述したように、散乱せる肉片がグレのそれであることの最終的確証となったのは、以前ペットショップで購入していた安物の虎斑模様の首輪によってであるが、実はつけたのは死の前日であった。もしそれをつけていなかったら、おそらくはまだグレの死が信じられず、いや信じたくなく、今でもむなしく帰りを待っていたかも知れない。今回のことで兵隊の認識票の意味が初めて納得できた。肉片に化した遺体の識別は、とりあえずは認識票でするしかないのである。



もう一つの死


 八月の最後の日、今年九十二歳になった妻の父が、一年半ばかり入院していた近くの病院で死んだ。近所の人もおそらくなにも気づかないほど静かな細波がたっただけの三日間だったが、神秘的な勘の働く猫たちがこのどさくさの中で何かを察知してどこかに行ってしまうのでは、と恐れたが、それは杞憂に終わった。日中どこかに一時避難していたのか姿が見えなかったが、夜になったらまた帰ってきていた。 猫の死と人間の死を同列に扱うのは人間に対する冒涜ととられるだろうが、しかし今年の夏の猛暑と、今朝あたりの風に含まれる唐突と言ってもいい秋の気配といった自然界の大きな循環の中で、人間と動物の違いなどどうでもいいことのように思えてくる。 家族だけのしめやかな野辺送りの日は、もしかしてこの夏最高の暑さだったかも知れない。そしてその帰り、車の窓から見た巨大な積乱雲の連なりは、まるで行く夏を惜しむかのように打ち上げられた天然の花火であった。御陵に続く甲州街道の街路樹が、まだまだ青々と繁っているはずなのに、夏の終わりのその光と影の中で、すでに黄葉の時期を迎えた公孫樹並木と錯覚された。 




『青銅時代』、第四十二号、二〇〇〇年