2. 生粋主義をめぐるウナムーノ (1971年)



生粋主義をめぐるウナムーノ

 

 現代スぺインの生んだ特異な思想家・作家ミゲル・デ・ウナムーノ Miguel de Unamuno(一八六四-一九三六)の主要作品が最近ようやく翻訳紹介され始めた(1)。ウナムーノより一世代あとのオルテガ・イ・ガセット Ortega y Gasset(一八八三-一九五五)の方がつとにわが国の読書界になじみが深いが、しかしオルテガの著作の深い意味を把握するためには、どうしても一度ウナムーノをくぐらなければならないように思われる。ウナムーノとオルテガという現代スペイン思想の屋台骨を作った二人の人物の関係を考察するのが拙論の目的ではないが、オルテガはその著作活動を通じて、絶えずウナムーノを意識していたふしが見られる。彼はその厖大な数にのぼる作品中、きわめてわずかしかウナムーノに言及していないが、そのことによってかえってこの先輩に対する彼の屈折した意識がうかがえるのである(2)
 とにかく、ウナムーノ、オルテガという現代スペイン思想の良質の部分が、ようやくわれわれの前に姿を現わしつつあることは喜ばしい。しかしいったいわれわれにとってスぺイン思想とは何なのか? あるいはもっと問題を広げて、たがいに異質の思想や文化が出会うということはどういうことなのであろうか? 滔々たる外国文化の流入の中に身を置いているわれわれにとって、その外国文化とは何なのか?
 いまそうした大きな問題にかかずらうつもりはない。しかしウナムーノ、オルテガなどの作品を読むとき、われわれの胸中を去来するのは、まさしくそうした根源的な問いなのである。その理由はいくつか挙げられようが、なかでももっとも重要な理由は、彼らが、ヨーロッパにしてヨーロッパならぬ国スぺイン、あるいはオルテガの言いまわしを借りるなら、「ヨーロッパの精神的岬、大陸の魂の舳先」(3)たるスぺイン、の思想家だからであろう。つまりスペインもわが国も、歴史的・地理的相違はともかく、ともにマージナル文化の中にあるということである。そしてウナムーノもオルテガも、自分たちの置かれた特殊な位相、その利点も限界も、その栄光も悲惨もすべてひっくるめた位相に踏みとどまって誠実に思索した思想家であったということである。
 さて、以上のような観点に立つなら、拙論でとりあげようとする、ウナムーノの最初期の作品『生粋主義をめぐって』“En torno al casticismo”(一八九五)はきわめて興味深い作品と言える。しかし与えられた紙数にも限りがあるので、ここではこの作品を理解するために必要と思われる幾つかの問題点を指摘するにとどめよう。



二人のウナムーノ

 『生粋主義をめぐって』は、一八九五年の二月から六月にわたって、雑誌『近代スぺイン』“España Moderna” に発表された五つのエッセイから成る論文集である。ちなみに五つのエッセイの題名を列挙すれば「永遠の伝統」「歴史的血統たるカスティーリャ」、「カスティーリャの精神」、「神秘思想と人文主義」、そして「現代スペインの無気力について」である。題名からも察しられるように、これは 「スぺインとは何か?」という彼と同時代の作家たち(彼らは後年、一八九八年という米西戦争の敗北の年をもって、「九八年の世代」という名称のもとに一括されるが)が生涯取り組んだ問題に対する、ウナムーノの最初の理論的考察である。
 しかしこれはきわめて難解な作品と言わなければならない。それというのも、ウナムーノの最初の作品たる本書の中に、すでに二人のウナムーノが融合することなく混在しているからである。
 いまさらことわるまでもなく、ウナムーノはきわめて攻撃的・行動的思想家として知られている。彼が世界的に名前を知られたのは、「現代スペインのドン・キホーテ」、『生の悲劇的感情』“Del sentimiento tragico de la vida”(一九一三)の作者、「逆説と矛盾の人」、「南欧のキルケゴール」、「実存主義の先駆者」としてである。つまり、信仰と理性、精神と文字、福音と教義などの矛盾相剋に苦悶するきわめて攻撃的かつ行動的な思想家として有名である。現代ドイツのすぐれた人文学者ロベルト・クルチウスも、彼のことを「スペインの鼓吹者」(Excitador Hispaniae)と呼んだ。『私の宗教』(一九〇七)の中で彼自身言っているように(4)、ウナムーノは自分の上にレッテルが貼られることを極度に忌み嫌ったが、しかし「苦悶者」(agonizante)、「対抗者」(antagonista)、「闘技者」(agonista)というレッテルだけは別だったらしい。
 生きることは自己を作りあげること、自分の小説を書くこと(novelar)であるとするウナムーノにとって、自分のまわりにこうした「神話」が作り出されることは望むところであったかも知れない。しかし皮肉なことに、まさにこうした「神話」が晩年の彼に、また新たな苦悶をひき起こしたのである。自伝的小説『小説はいかにして作られるか』“¿Cómo se hace una novela?”(一九二五)や最晩年の作品『殉教者、聖マヌエル・ブエノ』“San Manuel Bueno, martir”(一九三〇)には、そうした苦悶にあえぐウナムーノの苦しい息づかいが感じられる。
 ともあれ、個性的な人間の周囲に大なり小なり「神話」が織りなされるのは避けられないことかも知れない。ウナムーノの周囲にも、その崇拝者、敵対者双方からの莫大な量の「神話」が積み重ねられた。筆者は寡聞にして知らぬが、現代スぺインにおいておそらくウナムーノほど多くの作品論、作家論の対象となっている作家はいないのではなかろうか。手もとにある何種類かのウナムーノ書誌にも、莫大な数の研究書、論文が載せられているし、その数は減るどころか日を追って増加しているように思われる。
 しかし神話はいつかこわされなければならない。ウナムーノとほぼ同じ時期に生まれ、同国民に与えた影響の質と深さにおいても類似点の多い夏目漱石(一八六七-一九一六)には、ウナムーノとはいわば正反対の意味での神話「即天去私」が形づくられたが、それについて江藤淳は次のように書いている。
 「元来、個性的な作家が存在し、多くの崇拝者を持つような場合、その死後四半世紀乃至は半世紀の間はある意味で神話期であって、この時期はほぼ正確に崇拝者たち―― 多く、弟子友人等の人々――の寿命と一致している。作家は彼らの追憶の中で神の如き存在となり、様々な社会や趣向の変遷に乗じて、神話はやがて厖大な分量にふくれ上がる。しかしひとたび生前作家と親交のあった崇拝者達が死に絶えるとそれは次第に雲散霧消する。あとに残るのは動かし難い一かたまりの作品であり、これが後に新しい神話を生むにしても、それはかつての感傷的な性格をすて、その故にかえって永い生命を持つにいたるのである」(5)
 このような神話形成、そしてその解体の過程はそのままウナムーノの場合にも当てはまるようである。ところでウナムーノ神話がこわされるにあたって大きな力があったのは、一九五九年に出版されたC・ブランコ・アギナーガの『観想的ウナムーノ』(6)であろう。アギナーガのこの著作は、苦悶する矛盾の人ウナムーノのもう一つの面、すなわち観想的・静観的ウナムーノに焦点を当てたものである。特にウナムーノの初期の作品『生粋主義をめぐって』と小説『戦争の中の平和』“Paz en la Guerra”(一八九七)の分析を通じて、従来等閑視されていたヴナムーノの静観的側面を見事に立証している。かくしてウナムーノの死後約四半世紀を経て、それまでのウナムーノ神話はくつがえされたが、しかしそのことによってさらにウナムーノ像の奥行き、その複雑さが浮き彫りにされたと言える。つまり心情と理性、信仰と文字という矛盾相剋の上に(あるいは内に)、さらに気質的な対立葛藤が、行動的ウナムーノと静観的ウナムーノの対立が加わった。神話の中のウナムーノは、「肉と骨」(carne y hueso)を備えた具体的人間ウナムーノとなったのである。
 人はだれであれ、己れの内部に矛盾対立する多くのものをかかえているが、しかしウナムーノほどその振幅の激しい人はけだし稀であろう。
 人はとかく、円満な人格、統一された人格という美名のもとに、できるだけその振幅の幅を少なくしようと努める。それが多くの場合、無気カな生、妥協の上に成り立った生への逃避となる。人格の豊饒化に向かう代わりに生の貧困化に向かうのである。ウナムーノはそうした妥協、無気力をもっとも嫌悪した一人であった。『生粋主接をめぐつて』全体の方法論であり、また彼の一生の生活態度ともなった、次のような彼の言葉がある。
 「完全な真理はふつう除去法(via remotionis)によって、すなわち極端なものを排除することによって中庸の中に求められる。ところで極端なものとはその相互的機能と働きによって生のリズムを産み出すものであるが、そうした除去法によっては、ただ真理の影にしか、冷たく陰気な影にしか到達しない。私が思うに、それよりも好ましいのは、別の方法、つまり矛盾を交互に肯定する方法であり、読者の魂の中に極端なものの力をきわ立たせることによって、中庸のものが魂の中で活気を帯びることである。生とは闘いの合成運動なのだ」(7)
 これは、スぺインの蘇生をめぐってまず考えられる二つの精神的態度、すなわち外部に対して眼をふさぎ、ひたすら自国の伝統にしがみつこうとする伝統墨守主義あるいは生粋主義と、広く外部に対して門戸を開き、他のヨーロッパ諸国の進歩の歩調に自らを合わせてゆこうとする進歩主義あるいはヨーロッパ主義、に対するウナムーノの姿勢であるが、しかし同時に、当時のウナムーノを同様の力をもってつき動かしていた行動的傾向と静観的傾向に対する能度表明とも考えられるのである。これを別様に表現するならば、心情と理性、信仰と文字という二元的な世界に惹かれている自分と、そうした白黒のはっきりした、光と影が画然と分かたれた世界のいわば中間にある一元的な薄明の世界に惹かれている自分とを、どちらか一方を否定することなく同様の愛着をもって肯定しているのである。そしてこの当時の、これら二つの傾向の平和的共存の中にあったウナムーノは、いまだ悲劇的な相貌を帯びてはいない。つまり行動的攻撃的ウナムーノ、苦悶するウナムーノの登場は、あの有名な一八九七年の危機まで待たなければならないのである。理性に対する楽観的な信仰が土台からくずれ去ると同時に、幼年時代からの幸福なカトリック信仰(これはマドリード遊学のときすでにくずれ始めてはいたが)が決定的に消滅し、かわって懐疑に裏打ちされた、苦悶そのものである信仰が芽生えたあの危機に待たなければならないのである。
 すなわちいまだ理性の力強い進歩に信頼していたこの時期の実証主義者ウナムーノには、 いざとなれば自分を温かくつつんでくれる母のような「自然」が、善と悪、光と暗の境界定かならぬ薄明の世界(ウナムーノはこれをニンボ nimbo [光背] と呼んでいる)が間近に手を広げていたのである。
 こうした二つの傾向、気質、すなわち行動的・二元的傾向と、静観的 (キリスト教で言う観想とは異なる、むしろ万有内在神論的静寂主義と言った方が正確であろう)・一元的傾向は、J. マシア氏も適切に指摘しているように(9)、彼が生を受けその幼少期を遇した気候温暖なバスク地方と、彼が生涯の終わりまで踏みとどまったカスティーリャ地方、ウナムーノの好んだ表現を借りるなら、霧(niebla)と小雨(llovisna)につつまれたバスク地方と、光と闇が画然と分かたれた「一神論的」風土たるカスティーリャ地方の影響が、彼の内部に分かちがたく混在していたからであると言えよう。しかしもちろん、この静観的傾向が一八九七年の危機を境としてウナムーノの中から一掃されたわけでは決してない。行動的・攻撃的ウナムーノが表面に強く押し出てくると同時に、それは彼の内部にさらに奥深く根を張って行ったのである。そしてそれは、時おり行動的・攻撃的ウナムーノを押しのけて表面に浮かびあがってくる。彼の未発表の詩作品、なかでも一八九九年に書かれた「蝉」“Laq cigarra”、あるいは晩年の小説『殉教者、聖マヌエル・ブエノ』、『将棋さしドン・サンダリオの小説』“La novela de Don Sandalio, jugador de ajedrez”(一九三〇)などがその例である。
 さてこの辺でもっと具体的に、本論考の対象である『生粋主義をめぐって』に話を戻さなけれはならない。しかしそのためには、この書が扱っている問題、いわゆる「スぺイン問題」について簡単に述べておく必要がある。



二つのスペイン

 先ほど、スペインはヨーロッパにしてヨーロッパならぬ国であると言ったが、事実、スペインほど自国を他国とは違う特別な国として意識する国はヨーロッパでも珍らしい。「生粋主義」(casticismo) とは、まさしくそうした精神的風土が生み出した思想である。ところで「生粋主義」という言葉であるが、これは国粋主義のように政治的な主義主張というより、より内的な精神態度、自国に固有な精神を純粋に保とうとする考え方といったようなものである。『生粋主義をめぐって』のフランス語版の訳者バタイヨンは、これを強いて訳さずに原語のままに残し、タイトルも『スぺインの本質』としているが(10)、その方が無難であろう。ところでウナムーノは「生粋主義」について、冒頭で次のように説明する。
 「ここでは生粋な(castizo)ならびに生粋主義(casticismo)という言葉を、ふつう一般のきわめて広い意味で解する。生粋な(castizo)という言葉は、血統(casta)という言葉から派生し、そしてこの血統という言葉は、純粋な(casto)という形容詞から派生する(11)
 しかしこの生粋主義は自らのうちに背理をかかえている。つまりオルテガがいみじくも指摘しているごとく(12)、生粋なるものは本来、自然発生的、無意識的なものであるのに、それを主義主張とすることはすでに自己矛盾だからである。それはともかく、この生粋主義あるいはスぺイン主義は、それと対立するヨーロッパ主義と共にスぺインには古くから牢固として存在した。これは十九世紀ロシアにおけるスラボフィル(スラブ派)とザパドニキ(西欧派)のように、周辺文化圏にある国、自国の後進性に敏感な国には宿命的な対立と言えよう。しかもスペインの場合、そこにもう一つ複雑な要素が加わる。すなわちスぺインはかつて世界一の大国であったということ、己れの可能性を最大限に発揮した一時期を持った国であるということである。栄光にくるまれた過去があったということは、スぺインにとって一つの幸福であると同時に、また一つの不幸である。没落意識がそれだけ熾烈だからである。
 『生粋主義をめぐって』は一八九八年の米西戦争の敗北(これはスペインの没落が自他ともに歴然となったという意味できわめて重大な事件である)という大打撃をまだ受けない時期に書かれたものではあるが、すでに、自国が他のヨーロッパ諸国にはるかに立ち遅れているという没落意識、危機意識と、スペイン再生の道を奈辺に求むべきかという問題意織につらぬかれている。通説では米西戦争の敗北を契機として、いわゆる「スぺイン再生論議」がにわかに脚光を浴び、議論され始めたということになっているが、それはあくまで通説にすぎない。そうした問題意識は他ならぬ黄金世紀の内部にすでにかもし出されていたことは、ペドロ・サインス・ロドリゲス(13)の指摘を待つまでもなく明らかである。
 たとえばサアべドラ・ファハルド(一五八四-一六四六)、ケべード(一五八〇-一六四五)、グラシアン(一六〇一-一六五八)の名前を思い浮かべれば充分であろう。スぺインの危機意識、没落意識、あるいは劣等コンプレックスの歴史は古く、スぺインという国の内奥に深く食いこんだ棘と言えよう。それは決して「九八年の世代」の専売特許ではないのである。
 しかし、ウナムーノをはじめ九八年の世代の文学者たちのスペイ観が、それ以前の文学者たちのそれと決定的に異なるところは、十六、十七世紀のスぺイン黄金世紀(政治的なそれは一世紀先行する)を決して自国の可能性の最大の発現とはみなしていない点である。たとえば一世代前のメネンデス・イ・ぺラーヨ(一八五六-一九一二)にとって、黄金世紀はいわばそこに立ち帰るべき原点であり、スぺイン的生の最高の典型であった。しかしそう考えることは、未来否定であり、後ろ向きの生てあるがゆえにしりぞけられなければならない、そうウナムーノは考える。
 ウナムーノが作家として世に出ようとするとき、まず取り組まなければならなかったのが、こうした長い歴史を持つスペイン問題であったのは当然である。特にウナムーノのように烈々たる祖国愛に燃えていた青年にとって(このとき彼は三〇歳であった)、この問題を素通りして作家として立つことは不可能であったに違いない。要するに『生粋主義をめぐって』はウナムーノのきわめて個性的な出発を刻印していると同時に、深く時代の流れを反映しているのである。



内なるスぺイン

 それならばウナムーノのこの『生粋主義をめぐって』は、スぺイン本質論として、いったいどのような意義を有するのであろうか? 確かにこの本はアンへル・ガニベット(一八六二-一八九八)の『スぺイン精神考』“Idearium español” (一八九六)と共に、スぺイン知識人に祖国再生への熱意を燃え立たせ、第二の黄金世紀、第二のルネサンスを用意した重要な作品ではある。
 しかし学問的・歴史的スぺイン文化論としてこれを見るとき、われわれはそこに大きな欠落を見なけれはならない。つまりこの時期のウナムーノは、歴史というものを非常に狭い意味で解している。歴史というものを、ちょうど波立つ海の表面のように、単に表層に惹起する出来事(sucesos)としか見ていない。ショーペンハウアーのように、歴史は人間の行為に関して経験的データを与えるものではあるが、人間の本質については何事も語ってくれないと考えていたのである。
 「歴史の波は、そのざわめきと、太陽を反射するその泡ともども、絶えまなく続く深い海、すなわち沈黙する海、そのもっとも深い底には陽光がけっして届くことのない海の上を揺れ動いている。新聞が毎日のように語っているすべてのこと、“歴史的現時点” についてのあらゆる歴史は、書物や索引書の中で凍結し結晶する海の表面にすぎない」(15)
 そこで彼は、歴史の実体であり、変化の波の下にあって不変の 内-歴史(intra-historia)という概念を導き出す。つまりウナムーノは、伝統と進歩、スぺインとヨーロッパという対立を越えてスペインの再生を実現する方途を、単に両者の中間にではなく、その内部に求めているのである。結局、従来の伝統主義者たちの言う伝統は歴史の表面に現われたもの、歴史的伝統にすぎないのである。ヌマンシア、ラス・ナバス、グラナダ、レパント、バイレンなど、スぺインの栄光に彩られた、いやむしろ栄光にまみれた地名に対するウナムーノの冷淡な反応もそこから来ている。スペインの未来、可能性のスぺインは、前述のような歴史的伝統に固執することではなく、むしろそうした輝かしい歴史の下にある永遠の伝統、スペインの 内-歴史 を掘り下げ、それに充全なる表現を与えることにあるとするのである。つまりそれまでの再生論者たちの見解は、つきつめて行くならば、いままでないがしろにされてきた国土の開発(特に治水)と知性の開発であるが、ウナムーノはむしろ、さらに内的なもの、精神的なもの(宗教的なものと言ってもよい)、無意識的なもの、彼の言葉を使うなら 内-意識的なもの(intra-conciencia)の再生に待たなければならないとするのである。
 彼の視点は、多くの点で彼と類似点を持っているガニべットのそれよりさらに内に向かっている。ガニべットは聖アクグスチヌスの例の有名な言葉「汝の外に出ずに内にとどまれ、真理は内なる人間に住まう」(Noli foras ire, in te ipsum redi, in interiore…)をまねて、「外に向かうな、真理はスぺインの内に住まう」(Noli foras ire; in interiore Hispaniae habitat veritas)と言っている。ライン・エントラルゴも指摘しているように、アウグスチヌスを文字通り真似るなら、「スぺインの内に」(in interiore Hispaniae)ではなく「内なるスぺインに」(in interiore Hispania)と言わなければならなかった。それが単に言葉のあやまりか、それとも意識的なものかはともかくとして、ガニべットの目指していたものはまさに「スペインの内に」であって「内なるスぺインに」ではなかった。つまり、ガニベットの視線は、ウナムーノのように、内-歴史内-意識 にまでは到達していないのである。ガニベットにとって、再生したスペインに住む住民は歴史的血統たるスぺイン人であったが、ウナムーノにとってそれは、永遠の血統たるスぺイン人、すなわち他ならぬ人間そのものなのだ。ウナムーノは、スぺインの、スペイン人の本質を探ることによって、他ならぬ人間そのものを求めていたのである。われわれはウナムーノの方法論が、「個(特殊)を通じて普遍へ」であることを銘記しておかなければならない。 そしてウナムーノは、 純粋にスペイン的なるがゆえに人間そのものとしか言いようのないものとして、セルバンテスの「ドン・キホーテ」をあげるのである。



スぺイン再生の道標、ドン・キホーテ

 「セルバンテスはその『ドン・キホーテ』の崇高な件において、われらのスペインに対して、現代のスぺインに対して、善人アロソソ・キハーノを通しての再生の道を示している。……なぜならば彼は、純粋なスぺイン人であるがゆえにかえってそのスぺイン主義を脱却するに至ったからである。つまり彼は普遍的精神に、われわれ皆の内部に眠っている人間そのものに到達したのである」(17)
 『生粋主義をめぐって』をスぺイン文化論としてよりも、ウナムーノの思想形成という観点から捉えてみるとき、このウナムーノの言葉はきわめて意味深長である。つまり、スぺイン再生の道標として、なぜ遍歴の騎士ドン・キホーテではなく、夢破れて故郷に帰り、牧人として余生を送ろうとするアロンソ・キハーノ(ドン・キホーテの本名)でなければならないのかということである。
 その問題に答える前に、スぺインの内-歴史解明にあたって、なぜ文学作品たる『ドン・キホーテ』が浮かびあがってくるかについて述べておかなければならない。つまりウナムーノは、民族のうちに眠っている無意識的なるもの、内-歴史的 なるものは言語のうちに具体化され、そしてその民族の意識された理念は文学の中に具現されると考えるのである。かくしてウナムーノはスペイン精神をもっとも純粋な形で現わしている文学として、カルデロン・デ・ラ・バルカの『人生は夢』とセルバンテスの『ドン・キホーテ』をあげる。しかしここで注意しなければならないのは、ウナムーノが前者に対して否定的であるということである。すなわち、これら二人の文学者は、同じくスペイン精神をもっとも良く具現してはいるが、カルデロンの方は歴史的血統を代表し、セルバンテスは永遠の血統を代表していると考えるのである。つまりカルデロンは、地理的、時間的なるものから脱却せずにスぺイン民族のシンボルとなるにとどまったが、セルバンテスはスペイン的なるものを掘り下げそれを脱却することによって永遠の血統、人間そのものに到達したのだ(19)
 それならばスぺイン再生の道標として、なぜドン・キホーテではなくアロンソ・キハーノを選ぶのか。簡単に言うならば、この時期のウナムーノは、栄光を求め、狂気に駆られて諸国を遍歴したドン・キホーテが、これまた栄光を求め、遠く新世界にまで足を伸ばしたスペインそのものの写しに見えたからに相違ない。それゆえ彼は、夢破れ、過去の狂気を悔いて故郷に帰り、牧人として静かに余世を送らんとするアロンソ、正気に返った善人アロンソ・キハーノを再生の道なとして選ぶのである。これと同じ選択は、スぺイン文化の根底にあってそれに生命を与えている神秘思想を考察するときにも行なっている。
 つまりスペイン神秘思想の頂点を示すイエズスの聖テレジアや十字架の聖ヨハネよりも、むしろ神秘思想とユマニズムを融合させようとしたフライ・ルイス・デ・レオンを選ぼうとする。すなわち、「厳格かつ戦闘的な」神秘思想、あらゆる感覚的事物を脱して「内的城に閉じこもる」神秘思想ではなく、「心情と人間的敬虔」の神秘思想、自然を敵視することなく、自然を友と考え宇宙を支配する平和と和合のシンフォニーに参入せんとする人文主義的神秘思想、そしてその体現者たるレオンを、スぺイン再生のためのすぐれた先達とするのである。
 このように、戦闘的な社会の中で、その余りの柔和さのために挫折を余儀なくされたレオン、そして夢破れて故郷ラ・マンチャに帰り、牧人として余世を送らんとする善人アロンソ、この二人の人物のうちにスぺイン再生の道を見ようとするウナムーノの視点は、まさに観想的・静観的ウナムーノのそれである。 
 前述したごとく、この時期の実証主義者ウナムーノは、限りなく前進して行く理性、あらゆる差別が撤廃される平和と平等の理想境への希望を捨ててはいない。理性に対する信仰が根こぎにされ、矛盾と苦悶に満ちた実存の世界に開眼するのは、一八九七年の精神的危機を待たなければならないのである。そしてそのとき、狂気の騎士ドン・キホーテが前面に登場してくる。生きるという人問実存の場において、小賢しい常識、推論的理性は徹底的に無力であり、人格の不滅性を獲得するためにはむしろ狂気を、 世のさげすみに耐える聖なる狂気を求めるようになるのである。一九〇五年に発表された『ドン・キホーテとサンチョの生涯』は、そうしたウナムーノの思想を見事に定着させた傑作である。
しかし、ウナムーノのドン・キホーテ論の変遷をたどることはウナムーノ理解の重要な鍵ではあるが、拙論の範囲をはるかに越える問題である。以上、『生粋主義をめぐって』理解のために必要な二、三の覚え書きをもって拙論を閉じることにする。

(一九七一・九・一五)


(1)神吉敬三、佐々木孝訳『キリスト教の苦悶』昭和四十五年、法政大学出版局。現在進行中のものとして同出版局の「ウナムーノ著作集」全五巻があり、『生粋主義をめぐって』は、その第一巻「スぺインの本質」に収録される。もっとも、戦前から散発的には翻訳紹介されていた。それについては『理想』昭和四十二年四月号、大久保哲郎「ミゲル・デ・ウナムノの実存主義」に詳しい。
(2)ウナムーノとオルテガについては多くの研究があるが、なかでも、P. Garagorri: Unamuno, Ortega, Zubiri en la filosofía Español (1968) とHumberto Pinera: Unamuno y Ortega y Gasset, contraste de dos pensadores (1965)がすぐれている。
(3)『ドン・キホーテに関する思索』現代思潮社、八五ぺージ。
(4)『キリスト教の苦悶』法政大学出版局版所収、六ぺージ。
(5)江藤淳『夏目漱石』角川文庫十九ページ。
(6)C. Blanco Aguinaga: El Unamuno contemplative, Madrid, Fondo de Cultura (1959)
(7) M. de Unamuno: En torno al casticismo, Colección Austral (7 ed., 1968), p.15.
(8)一八九七年の危機については、A・マタイス「死の哲学者なるウナムーノ」、『理想』一九六四年六月号、佐々木孝「不滅への意志――ミゲル・デ・ウナムーノの精神遍歴」、『世紀』一九七〇年二月号を見ていただきたい。
(9)J・マシア「キリスト教の苦悶――ウナムーノの問題作をめぐって」、『ソフィア』一九七一年春季号。
(10)“L’essence de l’Espagne”, traduit par Marcel Bataillon, Gallimard (1967)
(12) Obras Completas de Ortega, vol.II (7 ed. 1966), p.121.
(13)P. Sainz Rodriguez: Evolución de las ideas sobre la decadencia española, Ediciones Rialp, S. A., Madrid, 1962.
(14)スぺイン人の劣等コンプレックスについては、Juan José López-Ibor: El español y su complejo de inferioridad, Ediciones Rialp, S. A. Madrid, 1960を参照していただきたい。
(15)“En torno al casticismo”, p.27.
(16)Pedro Lain Entralgo: La generación del 98, Espasa-Calpe, S.A., 6 ed., 1967, p.189.
(17) “En torno al casticismo”, p.25.
(18) ibid. p.50.
(19) ibid. p.67.

(「清泉女子大学紀要」、第十九号、 一九七一年)