2. 風吉の時間 (1967年)

 

風吉の時間


  風吉の背後に赤い夕焼けがくすぶっている。熱を失った溶鉱炉が、その火照りだけを、空にばらまいているのだ。風吉は、自分の色あせた学生服の背が、この夕日の中でいよいよ白茶けた色になったことを、皮膚で感じた。そう感じながら道を歩いている自分というものの姿を、さらにもうひとりの自分の目が追っている、と思った。不健康で、いじいじした堂々めぐりの思考形態。

  学校は面白くなかった。授業や友だちの話、そういった具体的な理由で面白くないのではなかった。極めて漠然とした、曖昧な理由で面白くなく、そして不満なのである。いや、学校が面白くないのでもなかった。言うなれば、すべてが、こうして生きていること自体が面白くないのであった。そうした不満が、他人にも伝わるような具体的な姿を取らない、というより、取りえないことにも言いようのないいらだたしさを感じるのであった。 
  風吉の前に、自分の長い影が歩いて行く。水たまりや小石を避けることもせず、べったりと地面に押しのばされて行く。俺はこの影に似ている、と思った。自転車に乗った女子学生の白いセーラー服が、夕日にバラ色にまぶされて、風吉の側を過ぎる。なぜか、俺とは無縁などと考えてしまう。
  踏み切りを一町ほど前に見て、道は右に斜めに入ってゆく。夏の名残りのすだれのかかった家の側を通ったとき、「…ちゃん、御飯だから…ちゃんを呼んできなさい」という女の人の声を聞いた。同時に焼魚の匂いが、鼻孔をかすめた。夕日のあたる流し場で、お母さんが白いかっぽう着をきて魚を焼いている。子供たちがちゃぶ台を用意する。そんな情景を頭に浮かべながら通りすぎた。
  豆腐屋があって、その隣りが駄菓子屋、そして雑草と材木が空間を占める小さな広場、これは右手の風景。いつもの通りの風景。その向こうに風呂屋の煙突が見える。夕焼け空の中に黒く突っ立っている。このあたりから、校門を出た時すでに心の隅にはびこり始めた不安が急にふくらみ始める。特に今日のような日は、それが強い現実感を伴ってくる。家が燃えているかも知れない。出がけに火の始末をよくしてこなかった結果だ、と思うのだ。

 そう言えば、家のあたりが赤く燃えているように思えてくる。そして、灰燼に帰したわが家の前に呆然とたたずんでいる自分の姿が、いやにはっきりと目の前に現われてくるのだ。家々や電柱、銭湯の煙突など、様々な物象の影が不吉な形で、黒々とあたりを領する。
 家が見える曲がり角がすぐそばに迫ってきたとき、一瞬恐怖が体の中を走りぬけたが、風吉は努めて心を落ち着かせ、ついで歩調もわざとゆるめた。そうすることによってわずかでも火事をくいとめようとした。いや、妄想に過ぎぬ火事を、意思の力で消そうとした。
 曲り角の、ところどころ朽ちた板塀が運命の別れ目、などと悲壮に考えてしまう。左に折れる。そしてつい百メートル先に、何事もなかったように(あたり前なのに)素っ気無く、わが家のたたずまいが見えてくる。見ろ!なんでもなかったではないか。滑稽なひとり相撲!

 風吉はひとり暮らしなのであった。母は同じ町にある病院に、結核の療養のため入っている。そして兄は東京の大学に、姉は仙台の親戚の家から、私立の女子高に通っているのであった。食事は、朝晩とも、母の入っている病院脇の旅館でとっている。その旅館の子供が、風吉と同級なのであった。
 気楽といえば気楽な生活である。だが、ひとりになると、生活を切りつめる、禁欲的になるという性格が、風吉の身も心も変に動きのとれないものにするのであった。こういう自分の堅苦しさをうとましく思いながらも、また同時に、これが自分にいちばんかなった生き方だなどとも思うのであった。
 表の方は、いつも錠をかって、裏手の縁側から出入りした。踏み石代りに、汚い厚手の板が置いてある。安定していないので、足をかけるたびに、ぐらつく。それが妙に風吉の心をくじけさせた。
 縁側といったが、その言葉によって喚起されるイメージとはずいぶんとかけ離れた安手に作られた縁側である。もともとそこは窓しかなかったのだ。それを、ここに移り住んだとき、あまりに室内が暗いので、大工に頼んでガラス戸にし、外にほんの申し訳程度のぬれ緑を作らせたのであった。

 縁側に立つと、板塀越しに錆色をした鉄道官舎が見え、その横を小さな道が駅まで続いていた。この道を近道にして、朝晩、風吉と同じ高校の生徒が通った。それを風吉は、病的と言えるほど気にした。縁側からの出入りは、人通りの絶えた瞬間を選ばなければならない。悪いことをするときのような、人にとがめだてされるのを恐れるときのような、ドキドキする緊迫感があった。そのような時いちばん応えるのは、そういう自分の卑屈さ、臆病さを意識することであった。どうしてもっと堂々としていないのか、自分が恐れているのは何なのか。ところが、その理由も自分には判然としないのであった。ただ人に見られること、こちらの備えがないときに不意に見られることが、いやに自分を脅かすのである。どぶ鼠みたいに他人の目をこわがっている。といって、いつもそうだというのではない。人前に出て社交的にふるまうときもあるのだ。しかし、ちょうど陽の当たる場所から急にかげった場所に入るときのように、なんとはなしに外界に対するエネルギーが急速に失われてしまうのである。
 部屋の中は、何日も掃除をしていないので、畳の上を歩くと、足裏にザラザラと砂の感触があった。風吉はカバンを机の横に投げ出すと、そのまま畳の上に大の字になった。ああ疲れた、と誰に言うともなくつぶやく。この疲れはどこからくるのか、肉体的なものか、精神的なものか、たぶん両方だ、と思った。もう少し覇気を持たなければ……しかしこの状態から抜け出すことは当分できそうにない。
 台所の方から、隣りのおばさんの歌う単調なメロディーが聞こえてくる。あれは何という曲だろう、いやに淋しい調べだ。それを聞きながら、風吉は急にあることを思い出した。それは……
 風古の一家が移り住む前は、この家に一人の老婆が住んでいた。表(といっても北に面しているが)の方に店を開いていたのである。薄暗いその店には、子供たち相手の駄菓子や、それに一寸した乾物などを並べていたのである。風吉も何回か、ひっそりと店の奥に座って往来をすかし見るようにしている老婆の姿を見かけたものだった。風吉たちが住んでいた家が、この家のすぐ近くにあったからである。

 なんでも、近所の噂では、このばあさんと隣の馬場さんの奥さんとが反目し合っているということであった。どういうきっかけから関係がもつれたのかは聞かなかったが、この馬場さんの奥さんが、老婆と共同で使っている井戸端で、時々妙な歌をうたうというのだ。「ましろき富士の峰ーー」ではじまる、あの悲しいメロディーを、老婆への呪いの言葉に置きかえて、井戸端で低く、そして愚痴っぽく歌うということであった。それが老婆の被害妄想か、あるいは事実なのか、風吉は知らなかった。が、老婆はとうとう、同じ町に商売を営む娘のところに引きとられていった。
 煤やほこりに黒ずんだ天井を見上げていると、あの婆さんのしわぶきや吐く息が、そこいら中に染みこんでいるような気がするのであった。

 別の日、風吉は学校からの帰路にあった。同じ道、同じ家並の中を歩いて行った。小学校の側を通ったとき、一群の子供たちが幼い喚声をあげてボール遊びをしているのが目に入った。木造の古い校舎、校庭の左よりの所に立っている大きな二本のけやきの木、その下の砂場。夕日が教室の窓のカーテンをほの赤く照らしている。
 風吉は、一日のこのような時刻が特に好きであった。妙に心が惹かれた。自分にぴったりの光と熱があり、物体の重量感の刺激的でないのがなによりなのだ。だが同時に、無性に寂しい感じに襲われもする。日中の圧倒的なエネルギーが消滅して、物事の裏が表に出てくる時刻だが、どうしても日陰者という感じがつきまとうのだ。それがあまりに自分の心の風景に似通っているのが、物寂しいのであった。       
 家が見えてくる例の角を曲がったとき、風吉は家の前でうずくまっている母の姿を認めた。周囲の雑草を抜いているらしいその母の姿は、なぜか哀れっぽかった。学校勤めの母が風吉たちの帰宅前に家にいることなど数える位しか無かったのに、いまこうして世間一般の日常が手もとにあるのだ。風吉は我知らず胸が高鳴ってきた。
 しかし同時に、風吉は何か不満のようなものを感じている。母はわざとらしく草を抜いている。風吉の不精の見せしめとしてやっている。体が普通でないのに余計なことをしている…  

  近付いてくる風吉の気記を察して、母は彼の方を振りむいた。家では滅多に見たことのない銘仙の着物の袖をたくしあげた母の額には、うっすらと汗がにじんでいた。
  「ああ、おかえり」
  「おかあさん、いいの、勝手に帰ってきたりして」
  風古の言葉には、はや非難の調子が出てくる。内心では、家にひさしぶりに帰ってきた母に、もっとやさしい言葉で話したい、いい気持ちで親孝行したいと願っているのだが、言葉はそんな内心を裏切る。この危険な傾斜の途中で踏みこたえようとするのだが、いつも駄目なのだ。
 「ああ、いいんだよ。それにたまには運動もしなくっちゃね。だけど風ちゃん、たまには家の回りの草でも抜いたらどう? 人が住んでいないみたいだよ。隣り近所に恥かしいじゃない」
  「そんなことはどうだっていいんだ。ねぇお母さん、ぼくにはこうして草が生えている方がしっくりくるんだ。それに隣り近所の思惑なんて気にしなくたっていいじゃないか。病人は病人らしく寝てたらいいんだ」
  風吉はそう言いながらも、はや後悔の念がキリキリと胸をしめつけてくるのを感じる。 風古が激しい自己嫌悪になすことを知らず勉強机に両肘をのせ頭をかかえこんでいると、やがて母も家に入ってきた。風吉は勉強している振りを装った。母は隣りの部屋に行く。そして押入れから、風吉の突っ込んでいた汚れ物を出すようだ。風吉は、またまた自分の中のひねくれ虫が騒ぎ出すのを止めることができない。
  「お母さん、いいよ、そのままにしておきなよ。結核患者に洗濯なんて無茶なことやめろよ。おれが好きなときにするんだから」
  「だってお前、お前はいつもそう言って、黄色くなってしまうまでほったらかしじゃないの。お母さんがちょっちょっとやってやるよ」
  「いいんだってば、ほっとけよ!」
  母は、こんなドラ息子の相手はできないというふうに立上がると、台所の方に汚れ物を持っていった。
 
  ところで風吉は、動くこともできないで机にしがみついているのだ。立っていって母の手から洗濯物を取り返したいのだが、そうなればなおさら母と争わなければならない。流しの方から、ポンプのきしむ音が聞こえてきた。あの大きな柄を上げ下げする母、そのたびに母の病んだ胸が圧迫される。風吉は、自分の心臓も圧迫され、そして血が逆流するように感じた。次はすすぎだ。冷たい水に手を入れる、ゾッとするような冷たさが頭の芯まで伝わる。
  風吉はイライラしながら、洗濯が終るのを待った。俺の苦しみなんて、結局こういうもんさ。何ひとつ行為に移せないで、ひとり相撲なのだ。考えてみれば、いつだってそうだった。兄や姉はもっとドライで、母にいろんな頼みごとをする、わがままも言う。それでいて、つまりは母に孝行で従順なのだ。そこへいくと、風吉はいろんなところに気をもんで、いらぬ気を使って、疲れて、不機嫌になって、結局母の心を痛めてしまうのだ。
  「風ちゃん、すすぎは一度だけしたからね、明日の朝干す前にもう一度すすいでちょうだい。やっぱりお母さんには、ポンプは疲れる」
 だから余計なことするなって言ったじゃないか、と口まで出かかった言葉を、風吉は辛うじて飲みこんだ。
  「あと何かないかい」
  「ない」
  風吉は怒ったように答える。
  「じゃ帰るからね。お前もそろそろだろ」
 「いや、もう少し勉強してから食べに行く」
  母はあっさり帰っていってしまった。下駄の音がだんだんと遠のいていく。風吉は母の後を追いかけていきたかった。もう一度帰ってきてもらって、なかよく話をしたかった。このまま帰られたら救われないのだ。
  道路側の窓ガラスに当たっていた陽光は、いちばん下まで下がってしまった。時おり風が窓の外を通りすぎた。かさこそと路上を紙屑の吹かれてゆく音が聞こえる。



昭和四十二年九月十一日執筆