ダリのことなど
今日はダリのことでも話そうか。
ダリが初めて私たちの前に姿を現わしたのは、昨年の夏、シロ、ミケ、そしてクロの三匹がまだ乳を飲んでいたころ、つまりまだ「おかあちゃん」が子育てをしていたころである。庭の東側の茂みから時々あたりを警戒しながら出てきて、玄関先の、おかあちゃんたちが食べ残した餌を盗み食いしていたのだ。そのころは当然やせこけた貧弱な猫で、歳はシロたちよりちょっと上といった感じであった。つまり生後四、五ヶ月だったということである。時おりおかあちゃんに威嚇されたり実際に追われたりしていた。一家とはなじむことなく、いつもひとりで家の東側にある斜面や裏の竹薮の中で寝起きしていたようだ。親はだれなのか、兄弟は何匹か、いっさい不明である。その点、亡くなったグレの境遇に似ていた。もっともグレの場合は初代ダリがいたおかげでおかあちゃんに苛められることはなかったが。 暑い八王子の夏が無事過ぎて秋になった。肌寒い日など、東斜面の陽だまりを太陽の運行に合わせて移動する彼の姿が時おり二階の窓から見えた。
もちろん初めは名前がなかった。ダリという名は、グレの面倒をよくみてくれた初代ダリ(昨春からその姿を見ていない)に似ていたことから自然にそう呼ばれるようになったのである。毛種というのだろうか、トラ斑で、あとから気がついたのだが、前足も後足も先端が白く、ちょうどソックスをはいたような具合になっている。妻の話だと、クリントン大統領だったかその前の大統領だったかの飼い猫がやはり足の先端が白く、それでソックスと呼ばれていたそうな。大統領の猫が何足のソックスを履いていたかどうかは知らないが、ダリは間違いなくそろいの四足の靴下を履いている。アメリカ映画に確か『ハリーとトント』という映画があったと思うが、そのトント(スペイン語でお馬鹿さんの意)に似た猫だと言えば、映画好きの人には容易にその姿かたちを想像してもらえるだろう。盗み食いの段階から、ダリ専用の食器で食べるようになったのがいつかははっきりしないが、たぶん初めの出会いからそう大して時間が経っていなかったであろう。玄関先で他の猫たちと一緒では気兼ねすると考え、裏の台所のガラス戸の下で与えることにしたのである。
他の猫たちと違って、ダリは初めから表情豊かなというか表現豊かなというか、人間たちに対してなんとか自分の意思を伝えようとする猫であった。ともかくよく鳴いた。他の猫たちは今現在でもシロや弟のジロー(彼が何者かはおいおい話すことにする)以外はめったに鳴かないし(それもトタンをこすり合わせるような変な鳴き声だ)、基本的には人に触られることも嫌がる。どうもこれはおかあちゃんの性格を色濃く継承したためらしい。しかしダリの場合は、食事をもらうようになってからほどなくして、触られたり抱かれたりすることを嫌がらなくなった。というより、自分から足元にまとわりつくようになった。寒さがさらに厳しくなってくると、さすがに戸外での生活は辛かろうと、食事場所の側に屋根付き古毛布入りの箱を置いてやった。そのころ他の猫たちは、かつて義父(夏の終わりに九十二歳で他界した)のベッドが置かれ、今は使われていないサンルームに寝泊りするようになっていた。最初は電気カーペットを、しかしそれでは火災の心配があるので、計り売りで買ってきた人口芝まがいのカーペットを部屋いっぱいに敷きつめ、その上に古毛布などを置いた。つまりダリは他の猫たちがサンルームを使うようになって不用になった箱をあてがわれたのである。しかし何度か彼を抱いて箱の中に入れようとしたが、野天での生活スタイルが染み付いたせいか、いっかな入ろうとせず、夜中も寝床に使っている気配がなかった。年を越えて時おり雪が降る時節になると、やはり気になり、どこに寝ているのか調べようとしたが、毎日居場所を変えているようではっきりとはつかめない。たいていは切り倒された竹が横積みになってできたわずかな空間に、落ち葉を布団代わりに寝ていたようだ。
しかしダリの最近に話を進める前に、我が家のほかの猫たち、とりわけ新人たちに触れておく必要があろう。おかあちゃんがシロ、ミケ、クロの三匹を産んだのは昨年の五月の末か六月の初めころで、彼らの性別がはっきりしたのは最初の出会いからかなり経ってからだ。シロとミケが雌、そしてクロが雄だった。六月二十六日深夜に交通事故で死んだグレが作った大きく深い心の傷をこれら新生児たちが少しずつ癒してくれた。だがこのころの手帳(日録)にはダリの記述はまったく見られない。かつてのグレたちがそうであったように、視界の端を時おり横切るシミのような存在だったということだ。そしておかあちゃんのお腹がまたまた膨らみ始めたのに気がついたのは、これまた手帳によると九月初旬ころから、ということになる。「おかあちゃんの様子が変。つまりまたニンシンの様子。子猫たちと別行動が多くなる。急にお腹が大きくなった。子猫たちは健気にもいつも一緒にかたまっている。夜、チーズのかけらを彼らにやるようになった。グレたちの時と同じ。しかしいつ打ち解けてくれるのか」。シ ロたちの場合はどこで生まれたのか分からなかったが、今度の出産は希望していた通り、玄関先に置いた箱の中でしてくれた。御用聞きや来客に邪魔されないように、玄関先のブザーを急遽門柱のところに移した。何匹生まれたのか見ようとしたが、下手におかあちゃんを刺激することを恐れてそれもままならぬ。確認したのは出産翌日、つまり十月八日だった。シロたちお姉ちゃんたちは遠慮したのか、玄関先の二つの箱には寝ていないようだ。このころの手帳には、時おりおかあちゃんがチビたち四匹をどこかに「持っていった」ことが書かれている。つまり文字通り首筋をくわえて、時に裏の室外機のところや、時にどこか近くの草むらにという具合にチビたちを「隠した」のである。これが野良特有の習性なのかどうかは知らない。しかしこれだけ可愛がっているのに、根本のところでは人間たちを信用していないわけだ。腹立たしいというよりも哀れさが先立つ。
ともあれ、出産騒動でいっときは忘れていたが、猫は一年に二回も妊娠できることを初めて知った。一家は一挙に八匹に膨れ上がってしまった。この調子でいくと恐ろしいことになる。おかあちゃんはもちろんのこと、上の三匹の避妊・去勢のことも考えなければならない。本によるとメス猫の発情は生後六ヶ月ごろから始まるという。近所に時おり体格のいい雄猫が徘徊している。しかし変なもので、いつか捕まえて手術をしてもらわなければと考えると、それでなくても気楽に抱っこもさせてくれない猫たちが、ますます離れていくようで、それだけで一種の気後れあるいは後ろめたさを感じてしまう。とりわけおかあちゃんは筋金入りの「野良」なので、こちらのそうした動揺や「魂胆」を見透かされずに果たして捕まえられるかどうか。たとえ捕まえたとしても何に入れて獣医さんのところまで持っていくのか。しかし逡巡ばかりもしていられず、あるとき意を決して犬のクッキー用のキャリーバッグを用意しておかあちゃんに近づき、背後から両手で思い切って捕まえ、狭い入り口から入れようとした。しかし半ば恐れ半ば予想していたように、彼女は後足を強く突っ張って抵抗し、とうとう逃げてしまった。こうなるとすっかり警戒して、以後一メートル以内には絶対近寄れなくなってしまった。仕方が無い、まず子猫たち(お兄ちゃん猫たち)から始めよう。順序としては、雄のクロより雌のシロとミケが先だ。おかあちゃんの場合の失敗に懲りて、今度は獣医さんから大きなケージを借りてきて、彼女たちの食事時を狙ったが、こちらは思っていたより簡単に捕まえることが出来た。こうして彼女たちは二泊三日の入院で無事避妊手術を終えて帰ってきた。日をおかずに今度はクロちゃんの去勢手術である。彼の場合はさらに簡単にことが運び、一晩で帰ってきた。どちらの場合も迎えに行ったときに、摘出されたびっくりするほど小さな朱色の器官を見せられた。仕方ないこととはいえやはり自然の摂理に反するという厳然たる事実を打ち消すことはできない。
おかあちゃんを医者につれていくことができたのは、シロたちより一ヶ月遅れてであった。その間、何度か試みたが、その都度失敗し、一度はあきらめようかと思った。しかし放置すれば、間違いなくまた次の妊娠が起こる。時はもう十二月の初旬、ぼやぼやしてはいられない。しかしチャンスは意外にあっけなくやってきた。ある日の午後、いつもの通り食器を片付けに猫小屋(そのころはすでに前述したサンルームが一家のホームだった)に入ったとき、運良く子猫たちは近くにおらず、おかあちゃん一人が餌を食べていたのである。気付かれないように急いでケージを運び入れ、次に猫のくぐり戸を近くにあった箱でふさいだ。一瞬何が起こったか分からないようだったが、次の瞬間、おかあちゃんは必死の逃亡を試みた。窓ガラスに体当たりし、果ては壁伝いに天井まで飛び上がろうとさえした。しかし逃げられないと観念するや可哀想なくらい怯えて両手の中に入ってきた。おかあちゃんが入院中、赤ちゃん猫たちのことが心配だったが、うまくしたもので、お兄ちゃん猫たちがそれとなく面倒を見ていたようだ。ともあれここで弟たち四匹のことも紹介しよう。シロたちの場合と違って、彼らは産み落とされてすぐの時から抱き上げることができたので、性別はすぐ分かった。白と茶色の雄、ロシアン・ブルーに似た毛種の雌、全身真っ黒の雄二匹。名前はそれぞれトラ、グレ、イチロー、ジローとした。トラはいわゆる虎斑ではないので、本当はダリとトラの名前を入れ替えるべきだったのだが、先着順ということで変更はできなかった。グレは正確に言えばグレ二世であるが、どうしてこんな毛色の子が生まれたのか。日本猫にはない毛色だ。隔世遺伝でもあったのか。イチローとジローの違いは歴然としている。つまり尻尾の長い(ただし先端が少し折れ曲がっている)方がイチロー、短い方をジローとしたのだ。
こうしておかあちゃん一家とダリの合計八匹の猫と一緒に年を越すことになった。朝晩二回の食事時は大混雑だったが、次第にそれもルーティン化し、聖なる務めと言えば大袈裟だが、生活のリズムに当然のごとく組み込まれていった。猫たちとのこの関係、この距離はなかなかいいなあ、と思うことがある。つまり猫たちにしても必要以上(?)に人間たちに媚びなくてもいいし、食事時の接触以外は互いに干渉せずに自由でいられる。これが犬だとそうはいかないであろう。犬と猫とどちらが人間とのかかわりが古いか知らないが、犬はぴったり(あまりにもぴったり)人間に沿って生活する。忠実である。ところがよく言われることだが、猫はよく言えば自主独立、実に気まぐれ、その意味では人間の感情の起伏にかなり近いものを持つ動物である、とどこかで読んだことがある。
我が家には他にダックスフントのクッキー、最年長(十歳)のインコのピーコがいるので、動物嫌いの人から見ると、なんと物好き、わざわざ面倒を背負い込み、家を不潔にしてバカじゃない、と思われるかも知れない。しかしこと猫に関しては、発端からしてこちらから望んでこうなったのではない。いわば緊急避難的にかかわり、かかわっているうちに自然増殖したというのが事実である。先ほど動物たちとそろって無事年を越したように書いたかも知れないが、本当はそうではなかった。ここ数年下肢の麻痺をなんとか持ち直していたクッキーが、除夜の鐘に合わせて、としか言いようのないタイミングで、またもや完全な麻痺状態になってしまったのである。鐘が鳴りはじめたとたん、小さくキャンと鳴いたと思う。そして少し歩き始めて急に立ち止まったかと思うと、そのまま下肢が動かなくなってしまった。アシカのようになったわけだ。大晦日に悪いなと思いつつ、かかりつけの獣医さんに車で駆けつけて注射を打ってもらったが、前回同様、原因は不明であった。大便小便を垂れ流しするわけではないので、完全な麻痺とは言えないかも知れないが、少なくとも後足は両方ともまったく動かなくなった。一日数度にわたるおしめの交換、心臓病のための丸薬と筋肉補強のためのシロップの服用と、双方にとってちょっと大変だが、これも考え方ひとつ、どうとでもなる。というより、人間たちはこの足の不自由な動物のためにいろいろと制約を受けるが、しかしそれに倍して、いろいろな喜び・癒しを与えられているのである。
それからグレのことも言っておかねばなるまい。年を越してすぐ、彼女は立川に住む猫好きの夫婦に貰われていったのである。猫が欲しいという人がいて、下の子たち四匹の写真をあらかじめ送ったところ、すっかりグレが気に入ったらしく、三が日が過ぎるや否や、車で駆けつけてきて、こちらの心変わりを心配するかのごとく(事実後にそう相手方は電話口で白状した)そそくさと接待の茶を飲み残したまま、ころげるように帰っていった。後日電話で報告してきたところによると、彼女の新しい名前はグレースというそうな。グレなどという意味不明の名前はどうぞ改名してやってください、と別れ際に言ったことを受けての報告である。グレースねえ、格が上がったな、と思う反面、ちょっと寂しい気もする。たぶん彼女は今では蝶よ花よと可愛がられているのだろう。けれど木枯らしの吹く草っ原で、日が暮れるまで兄弟たちと転げ回って遊んだ思い出だけはどうか忘れないでほしい。七匹の子供たちは本当によく遊んだ。日中はサンルームからベッド代わりの箱を運び出して日向に置いておくと、遊びつかれて重なり合って昼寝する、というのが毎日の日課だった。物置とブロック塀の間の、冷たい風が吹き抜ける狭い空間で、かくれんぼ、鬼ごっこのようなものをやっていたこともある。大きく成長した最近では時に反目し合う兄弟たちも、あのころは実に仲よく、お兄ちゃんたちは弟たちのやんちゃぶりをくすぐったそうに耐えていた。
そうこうしているうちに春がやってきた。おかあちゃんと上のシロ、ミケは避妊手術、クロは去勢手術を受け、チビたちの紅一点だったグレ(現グレース)は貰われていき、残った三匹は雄、ということだからいわゆる「季節」の心配はなくなったはずだが、しかしどうしたことか、三月の中旬ごろから、おそらくはおかあちゃんに先導されて、あるときは三匹、またあるときは四匹といった具合に、グループでの家出が相次いだ。一回も家出しなかったのは、シロだけではなかったか。いや、手帳によると彼女も一回はしたことになっている(「三月二十七日、クロを残してまた皆さんいなくなった」)。そして、ここでダリの存在感が増大してくる。つまり一家の相次ぐ家出には同調(?)せず、いわば留守宅を守ったことによって、彼の居場所が次第に確定してきたのである。もっとはっきり言うと、おかあちゃんの姿が見えなくなって初めてダリは安心して表舞台に出てきたわけだ。こうしてダリは、他のどの猫よりも人間たちになつき、それだけ可愛らしさを増していった。尻尾は誰かさんみたいに折れ曲がってはいないし、姿かたちはすらりとしてしかも大柄で、お尻の下にある鈴カステラのような睾丸は食べてしまいたいぐらいきれいな形をしてい.る。正直言うと、いつかおかあちゃんが他にいいところを見つけて、そこに居着いてくれまいか、と思っていた。確かに彼女は母猫としては偉いところがいっぱいあったが、しかし子供たちをいつも野良として一人前にしようと意固地になっていたきらいがある。チビたちが生まれる前にも(昨年の九月上旬だった)シロ、クロ、ミケに巣立ちを促すつもりなのか、彼らを何度か遠くに連れ出した。小雨混じりの寒い日だったが、通りの向こうのアパートの外階段や室外機の陰あたりに一匹ずつ離れて子猫たちが震えていたことがある。近くにおかあちゃんがいるのだが、彼らをいくら呼んでもおかあちゃんの指図があるのか近寄ってこない。近づくと逃げる。どういうつもりだったのだろう。いいかげん腹が立ってそのまま放置したが、夜には四匹とも帰ってきていた。
今回の数度にわたる家出騒動の中で、ダリは別格として、猫たちに二つのグループができたように思う。つまりおかあちゃんを筆頭に落ち着きなく絶えず家出を繰り返したミケ、トラ三人組と、我が家を自分たちの家と心得て、比較的落ち着いていたシロ、クロ、イチロー、ジローたちである。この断続的かつ組合せ不同の家出騒動がおさまったのは、ようやく四月の中旬だった。結局一月以上続いたわけだ。初めのうちは心配したり腹が立ったりしたが、こういう形で猫を飼う以上、つまり彼らの「ご馳走」のピーコや、下半身不随のクッキーがいて家の中で飼うことはできない以上、最後は仕方の無いことだとあきらめて、成り行きにまかせることにした。そうしたらどうだろう!、心ひそかに望んでいたことが現実となってしまったのだ。おかあちゃんだけがとうとう戻らなかったのだ。事件に巻き込まれたとは思えない。なぜなら、この一月の間、何回か戻ってきたときの様子から判断して、どこかに大事にしてくれる場所を見つけたようなのだ。身なりもこざっぱりしていたし、腹を空かせている風でもなかった。性格は少し暗いが、器量はいい方なので、誰か親切な人に飼われているに違いない(と思いたい)。
以上、猫中心にこの一年間を回顧した形になったが、この間もちろん人間たちの方にもいろいろな変化があった。今や猫屋敷となった感のある(いや確実に近所からはそう思われているに違いない)我が家のすぐ西側に運河が通ることになったことから、区画整理が進んで、北側と東側の竹薮はそのままだが、南と西にあった人家がなくなった。立ち退きを迫られた隣家の人たちには悪いが終の棲家にはもってこいの環境になった。いわゆる隣家というものがないからこそいま猫たちと一緒に暮らせるわけだ。しかし昨年の十月ころだったか、私の勤め先である大学と同じ系列の、同じキャンパス内の高校で英語の非常勤講師をしていた妻が、あるときとつぜん、疲れたからもう仕事を辞めたいと言い出した。確かにそのころの彼女にとって、教壇に立って教えるのは苦にならないようだが、試験問題作りや採点やその処理などの事務能力が極端に落ちてきたことは近くにいて気がついていた。脳梗塞の後遺症で自宅療養中の母親の介護疲れが、カウンターブローのようにじわりと彼女の中に効いてきたのだろう。いいよいいよ、もう十分働いたよ、と言いながら、そのとき突然自分もまたあと一年半後にやめようと思った。これまでもそうであったが、大事な決断は思いもかけぬ瞬間に、つと秤の針が一方に傾くぐあいにやってくる。ここ数年、少子化の波をまともにくらって、それでなくともいろいろと組織上の問題を抱えていた小さな大学での悪戦苦闘で、言いようのない疲れが蓄積していたことに、そのとき初めて気がついた。このまま行けばよれよれになってしまう。そうだ、相馬に帰ろう。田舎で年金生活者になろう。贅沢さえしなければ、なんとか食べていける。猫たちも田舎だともっと安心して暮らせるだろう。そう考えたら、すっと肩の荷が下りたような感じになった。この決断をいちばん喜んだのは、相馬で一人暮らしをしている今年八十九の母である。子供たちのうちの誰かが、そしてそれがかなわぬとなって、次にはその子たち、つまり孫たちのうちの誰かが戻ってくることを長年望み続け、時にそれを画策して失敗し、結局はあきらめていたのだから、その喜びようはひとしおだった。今まで親孝行らしいことを一つもしてこなかった私たちにとって、母のこの喜びようは今更のように「こたえた」。
今年八月下旬、二泊三日の予定で妻と二人相馬に帰った。一年間義母の部屋に祀っていた義父の遺骨を、福島市の寺に納骨してもらうこと、そして来春の相馬移転に合わせて義母を預ける老人病院(ホーム?)を物色するのが今回の帰省の主な目的だった。幸い両方の目的とも順調に果たして帰京することができた。留守中、娘が義母と動物たちの世話を一手に引き受けてくれ、桜上水で一人暮らしをしている息子が用心棒役で来てくれた。娘の話だと、留守中「家の」猫たちだけでなく、「ドブ」もしっかり食事時に来ていたそうだ。ドブ(化粧品の「ダヴ」ではなく、どぶ猫のドブである)と呼ばれるこの猫は、もうこれ以上はないほど汚れており、背中や首筋には掻き崩したのか一部ピンクの皮膚が露出している(このところ白い毛が生え始めた、つまりもともとは白猫なのだ)。歳は見当もつかないが、まるでパグ犬のような体躯でよたよた歩いている格好からすると、かなりの歳ではなかろうか。初めて見たとき、一瞬「人面犬」とつぶやいてしまった。猫の顔とはほど遠いでっかい顔をしているのだ。しかしこの猫もかつては可愛がられた時期があったのでは、と思わせるところがある。つまりすれっからしではないのだ。夏の初め頃から来るようになったが、食べ終わるとすたすたとまたどこかに帰っていく(もっとも仲間に入りたそうにぐずぐずするときもある)。そして醜く汚れきってはいるが、ただ一箇所美しいところが残っている。眼である。たいていは目やにで汚れているが、薄いブルーの眼が実に美しいのだ。でもドブよ、来春予定している私たちの民族大移動の際、君を相馬に連れて行くことはできない。君をまたゴミ箱あさりの生活に戻すのは本当に忍びないが、どうか許してくれ。私たちの動物愛護の精神なんてこの程度なのだ。君を怖がっている(汚いから?)家の猫たちになるたけ近づかないように(疥癬持ちだから?)毎度車の後ろで、しかも食器のふちになるたけ顔が触れないように、底の広いプラスチックの箱で食べさせるという、周到な小技を使っているこの偽動物愛護家をどうか恨まないでくれ。いや、彼は誰をも恨まないか。「ああ、ドブの全身を洗ってやれば、きっと可愛いのにね、性格も良さそうだし」と妻もつぶやくが、リハビリ中の老親と犬と、お前の仲間の猫たちを抱えて私たちもこれでいっぱいいっぱいなんでね、すまん。
当たり前だが猫にもそれぞれ見事なまでの個性がある。シロは女の子らしくしとやかで、抱き上げると腕の中で溶けてしまいそうな感触がある。ミケはよく言えば気取り屋さん、悪く言えば陰険である。クロは小さいときから独立独歩で、飄々と一人で行動することが多い。トラは小さいときはしきりに甘え、家人から「パパのお気に入り」と言われていたのが、最近では(もしかするとダリが人間たちに急接近したのが影響したのか)食事時にしか現れず、声をかけても知らん振りをきめこんでいる。イチローとジローは一心同体ならずとも一身同体と言いたくなるような仲のよさで、いつも重なり合って行動している。そしてダリ。毎夕食後、外に出て行くと、玄関の鈴の音を聞きつけてダリが高いところから呼びかけてくる。このところ下界の暑さに耐え切れないのか、ベランダと屋根の間で寝ているようだ(夏の初めにそこに小さな茣蓙を敷いてやった)。そこから鳴きながら屋根伝いに門柱の上によいしょとばかり降りてくる。その上でひとしきり体を撫でさせると(顔を寄せると、時に感極まって大きな口でこちらの頭を噛んだりする)、車置き場前の空き地に誘う。何が嬉しいのか転げ回ってこちらの足に絡みつき、突如走り出して、近くの闇の中にひそむ仲間たちにちょっかいを出したりする。といって、「一族の者」に対しては新参者・余所者としての立場をわきまえていて、自分の食器を横取りされても鷹揚に場所をゆずったりする。性格は後天的なものなのか、それとも先天的なものなのか。妻はいつかダリを抱っこして寝たい、と言うが、そのような時が果たしてくるのかどうか。しかしあまり「入れ込む」と初代グレのようなことが……いや、余計な取り越し苦労はやめよう。残された日々、たとえそれが不如意なことであろうと、来る者は拒まず、ていねいに付き合っていこう。これまでがそうであったように、これからも道は自ずと開かれることを信じて。
『青銅時代』、第四十三号、二〇〇一年掲載