歩いてすぐの近所に旧友夫婦が経営する蕎麦屋さんがある。月に一度は互いの家で夕食することになっていて、先日はこちらから出かける番であった。平日の午後七時 (すでに町がまったくの静寂に包まれる時間)、同じビルの上階の住まいの方に案内されるのかな、と思っていたら、一階の店に招き入れられた。従業員は既に帰っておらず、ご夫婦だけで迎えてくれたのだ。なんだか店を借り切ったような気分になった。そのとき頂いたご馳走に、店の看板料理のひとつ「とろぶたちまき」があった。かなり大きなちまきで、一つでお腹一杯になってしまう。家内と半分ずつご馳走になって、もう一つをお土産として持ち帰らせてもらうことにした。
ところでちまきには格別の思い出がある。かつて満州に住んでいたころ、近所の満人の小母さんが作るちまきは、思い起こせば今でも奥歯の裏から唾液が出てくるほど美味しかった。友人宅で食べたとろぶた(豚のトロの意味なのだろうか) ちまきがあまりに美味だったので、記憶の底に眠っていたあの満州のちまきの味を思い出したのだ。干し杏入りで、たぶんお米ではなくコーリャンが材料だったのか。
今満州とか満人という言葉を不用意に使ったが、果たしてそれらが蔑称であったのかどうか寡聞にして知らない。「寡聞にして知らない」などと気取っている場合か。確かにある時代まで日本人にとって「マンジン」は蔑称でなかったとしても、実質的に軽視と軽蔑の対象を意味していたことは否定できない。恥ずかしいことだが、日本近代史の中の汚点たるこの満州支配時代の歴史的総括を日本はいまだに果たしていない。かつての満州を懐かしそうに再訪する日本人たちのドキュメントが放映されることがある。そして、私たちの家はここらあたりだったかなー、などとあたかもそれらが当然の権利で「我が家」であったかのように言う日本人たちの言葉にヒヤリとする。
とつぜん土間に現れ、両手の人差し指と親指で三角形を作って「ちまき」をねだった日本人の男の子を、あの小母さんは覚えているだろうか。一日も早く忘れたい一時代の記憶としてすでに忘却の彼方に消えているのであろうか。(7/24)
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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