干し杏入りちまき

歩いてすぐの近所に旧友夫婦が経営する蕎麦屋さんがある。月に一度は互いの家で夕食することになっていて、先日はこちらから出かける番であった。平日の午後七時 (すでに町がまったくの静寂に包まれる時間)、同じビルの上階の住まいの方に案内されるのかな、と思っていたら、一階の店に招き入れられた。従業員は既に帰っておらず、ご夫婦だけで迎えてくれたのだ。なんだか店を借り切ったような気分になった。そのとき頂いたご馳走に、店の看板料理のひとつ「とろぶたちまき」があった。かなり大きなちまきで、一つでお腹一杯になってしまう。家内と半分ずつご馳走になって、もう一つをお土産として持ち帰らせてもらうことにした。
 ところでちまきには格別の思い出がある。かつて満州に住んでいたころ、近所の満人の小母さんが作るちまきは、思い起こせば今でも奥歯の裏から唾液が出てくるほど美味しかった。友人宅で食べたとろぶた(豚のトロの意味なのだろうか) ちまきがあまりに美味だったので、記憶の底に眠っていたあの満州のちまきの味を思い出したのだ。干し杏入りで、たぶんお米ではなくコーリャンが材料だったのか。
 今満州とか満人という言葉を不用意に使ったが、果たしてそれらが蔑称であったのかどうか寡聞にして知らない。「寡聞にして知らない」などと気取っている場合か。確かにある時代まで日本人にとって「マンジン」は蔑称でなかったとしても、実質的に軽視と軽蔑の対象を意味していたことは否定できない。恥ずかしいことだが、日本近代史の中の汚点たるこの満州支配時代の歴史的総括を日本はいまだに果たしていない。かつての満州を懐かしそうに再訪する日本人たちのドキュメントが放映されることがある。そして、私たちの家はここらあたりだったかなー、などとあたかもそれらが当然の権利で「我が家」であったかのように言う日本人たちの言葉にヒヤリとする。
 とつぜん土間に現れ、両手の人差し指と親指で三角形を作って「ちまき」をねだった日本人の男の子を、あの小母さんは覚えているだろうか。一日も早く忘れたい一時代の記憶としてすでに忘却の彼方に消えているのであろうか。(7/24)

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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