古い手紙を整理していたら、正田昭さんからもらった二通の手紙と一枚のはがきが出てきた。昭和42年2月21日付の、便箋三枚に小さな几帳面な字でびっしり書かれた横書きの手紙、同じく横書きの6月28日付のはがき、そして同年7月4日付の、便箋二枚の手紙である。差出人住所は、豊島区東池袋3の1の1とあり、宛先は共に練馬区上石神井のJ会神学院気付となっている。
それぞれの便箋の端には桜マークに「東」と書かれた小さなゴム印が捺されている。検閲済みの印だろう。東京拘置所(元小菅刑務所)の「東」と思うが、しかし小菅は葛飾区のはずだから東池袋という住所そのものがおかしい。刑務所からの手紙はいったんそこに集められてから発送されたのか。いや、そんなことはどうでもいい。正田さんのことをほとんど忘れかけていた、そのことの方が問題だ。正田さんに限らず、過去のある時点で時に親密に付き合い、時に重要なメッセージを伝えてくれたたくさんの人たちの存在を忘却の海に沈めたままここまで来てしまった。
正田さんと手紙を交わすようになったのは、聖パウロ女子修道会発行の雑誌『あけぼの』の編集をしていたY修道女を介してであった。その時は、いや実質的には今もだが、ハンサムな慶應ボーイが遊興費に絡んで犯したいわゆる「メッカ」殺人事件についてはほとんど何も知らなかった。また彼が獄中カトリックに入信し、小説を書くようになった経緯についても知らなかった。ただ昭和38年9月号の『群像』に新人賞候補作として掲載された「サハラの水」だけは、そのころY修道女から借りて読んだ。水晶のような透明な文体で、極めて抽象的な世界が観念的に描かれている、との印象が残っている。彼の獄中手記『黙想ノート』がみすず書房から出されるのもそれからまもなくである。
正田さんは「神学生」(実際はまだ哲学生だった)の私に、たとえば「至福直感」とは何ぞやなどというとんでもない難問を突きつけている。それに対してどんな返事を書いたのか、もちろん覚えていない。実はそのころ私自身も大いに揺れ動いていた。つまり心のどこかで既に退会の意志が固まりつつあったのである。事実、その年の秋には修道院を出て相馬に帰った。正田さんの死刑はそれからまもなく(昭和44年)だが、無職のまま妻と双子の赤子を抱えて必死に生活を立て直そうとしていた私に、もはや彼の死を悼む余裕すら残されていなかった。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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