今は都会のたいていの書店でもそうだが、書棚や店頭に並べられている本はたぶんコンピュータで売れ筋と予想された本、つまりなんのことはないチューインガム並のスピードで売れる本だけである。かつてのように、並んでいる本にどことなく店主の好みあるいは癖のようなものが反映しているなんてことは、もう絶対にないようだ。スーパーマーケットのトマトが、形と色だけはトマトだが、あの生臭いような、日向の匂いが滲み出てくるようなトマトでないのと同じである。
私の住んでいる町の本屋さんもご多分に漏れない。家内はそれでもときどき出かけては行くが、結局何も買わないで帰ってくるというのを繰返している。私自身はどうしても買いたい本はインターネットで買うようにしている。ここにも現代の「流通」というのっぺらぼうの巨人が専横をほしいままにしている。
だから昨日は松本清張の『文豪』、今日は大江健三郎の『憂い顔の童子』と、本屋さんで本を買ったのは、たぶん半年ぶりである。ふと誘われるようにして入った店内は、並んでいる本や店番の顔はもちろん違うが、作りそのものは昔とさして変わらない。西日の差す書棚の本を眺めているうち、本を買い、本を読み、本の感触を楽しむことが生活の中心であった中学生や高校生のころの自分にいつしか戻っていった。昔住んでいた家から百メートルと離れていないその本屋は、未知の世界への入り口であり、人生の奥深さを教えてくれる塾であった。本の活字が小さければ小さいほど、なんだか得をした気になった。今なら月が変われば捨てるはずの月刊誌までが大切な大切な宝であり、表紙が折れ曲がるのさえ気になって仕方がなかった。
さて松本清張である。いつのころまでであったろう、推理小説を次々とむさぼり読んだのは。まずはコナン・ドイルのシャーロック・ホームズ、チェスタトンのブラウン神父物、チャンドラー……そして日本では松本清張の作品に文字通り胸躍らせた。夢の中で完璧な完全犯罪のプロットを作ったこともある(もちろん目覚めてみれば穴だらけの筋立てだったが)。
さて大江健三郎である。いまも活躍している作家で主要な作品はだいたい読んでいるとなると、安岡章太郎さん(個人的にも存じ上げているのでどうしても呼び捨てにできない)と大江健三郎くらいか。それにしても文学書を読まなくなって久しい。少しずつ読書の喜びを思い出していこうか。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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