今日が何日で何曜日かということをほとんど意識しない生活が続くと、本当に今日が何日かが分からなくなってくる。新聞も一応は取っているが、めったに読まなくなってしまった。妻がちょっと目を通し、後はクッキーのふとん、オシメに早変わり。最近ではテレビも食事時にちらっと見るだけ、そしてビデオはまるで見なくなってしまった。衛星テレビもNHKのものはときどき、そしてスカイパーフェクトの方は受像状態があまり良くなかったこともあって、先月限りで解約することにした。
それでは世の中の動きから取り残されるのでは、と思われるかも知れないが、決してそんなことはない。外から入る情報量は、もっと減らしてもどうってことはなさそうだ。じゃ暇だな、と思われるかも知れないが、これが結構やることがあるものだ。他人から見ればどうってことがないものに見えるかも知れないが、べつだん時間的な制約がないので、一つ一つの作業をゆっくり丁寧にやる。それではさぞかし家の中が掃除が行き届いて綺麗になったでしょう、というと、そんなことは全くなく、逆に今までよりも家の中がごたごたしているかも知れない。つまり考えてみればぜひともやらなければならないことなど、もともとそう多くはないということだ。その時々に出合ったり見つけたりした物たちとの再会を、その都度楽しんでいるまでである.
たとえば長い休みの初めに感じる期待感のようなもの、さあ今まで読めなかった本とかそれまでしたくともできなかったことができるぞ、との期待感に似た感情を毎朝感じながら起き出すというのは、贅沢で勿体ないように思う。
それでは今いちばん時間をかけている作業はというと、これまで書いてきた作品や論文や雑文をネットに乗せる(業界用語で言うアップ)作業である。ところでこれらの文章がどのようにしてプロバイダーのところに保存されていくのかまったく分からないままに、最終的にはおそらく何千ページにもなる電字化された自分の文章のことを考えると、なんだか夜空を眺めるホーキンス博士みたいな気持ちになってくる。そして自分の子孫が月々いくばくかの使用量を払い続ける限り、電磁空間の中に半永久的に自分の文章が存在し続け、読もうとする人(がいればの話だが)にはいつでも読んでもらえる、と考えたら不思議な感動すら覚える。おや、本当に涙が…(まさか、ウッソでーす)。 (11/2)
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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