和歌山カレー事件の林真須美へ死刑判決が出た。直ちに控訴手続きがとられたらしい。彼女は退廷の瞬間、笑みすら浮かべていたという。
起訴されてから判決が出るまでの時間はこれでも短い方かも知れない。しかしこの種の事件でいつも思うのは、正義とは何か、あるいは正義はどこにあるのか、という根本問題である。彼女の笑みが何を意味しているかは知る由も無いが、もしそれがこの判決に対する不敵な挑戦を意味しているとしたら、被害者や遺族でなくても、やり場の無い怒りと憤りを感じざるをえないだろう。つまりその時、犯人(真犯人だとして)の罪に対して下される罰は、単なる報復処置としてもあまりにも軽いからである。司直の手に渡った以上、加害者はもはや被害者や遺族のいかんともし難い距離にあり、そして法治国家である以上、私的報復は許されない。しかし胸が張り裂けそうなこの無念さをどこにぶつけらいいのか。
裁判官、検事、弁護士、その他司法に携わる人たちはそのあたりのことをどう考えているのだろう、と疑問に思うことがある。彼らとて司法の世界に入るきっかけは、少なくともこの世に正義が行われること、であったはずだ。しかし多くの煩瑣な手続き、厖大な量の過去の判例、検事側と弁護側との間の駆け引きなどの中で、いつしか正義そのものが見えなくなっていはしないか。数年前アメリカで起こった例のシンプソン事件の結末にみられるように、正義はみごとなまでに無視されコケにされてしまう。裁判制度が人間世界の約束事の域を越えるものではなく、人が人を裁くこと自体に限界がある、つまり法的正義は極めて限定された正義である、と割り切ったほうがいいのだろうか。しかし……
あるときドン・キホーテは警吏に引かれた漕刑囚たちに出会い、彼らを開放した。彼にとって、即座に下される罰ならまだしも、長期にわたる、しかも受刑者自身の納得しない刑罰は、もう一つの不正義だからである。といって、私はなにも「目には目を、歯には歯を」のハムラビ法の方がいいなどと言うつもりはない。ただ、現在の裁判があまりに煩瑣な悪しきスコラ主義に陥っていて、正義とは何かという根源的な問題から遠ざかっていはしまいか、と思うのである。おりしも世界が、Pax americana(アメリカ流平和)ならぬ、実に手前勝手な Justitia americana(アメリカ流正義)に振り回されているからなおさらそう思うのだ。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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