二人はいつも、暑い夏も木枯らしが吹く寒い冬も、 JR八王子駅北口の本屋さん二階の文庫コーナーで六時半に待ち合わせた。いつからかそこには彼が訳した『ドン・キホーテ』が並んでいたから、彼が少し遅れても、なぜか安心だった。「やぁっ」、とどちらからともなく声を出し、近くの飲み屋に行った。時に牛タンの店であったり、時に騒がしいチェーン店であったりした。話題はスペイン文学や、ときには日本の現代文学にまで広がった。二人とも最後までクソ真面目な酔客であった。
日録を見たが最後に会ったのがいつだったか記録にない。ともかく二人とも四月からの去就を決めていて、当分会えないね、お別れ会兼激励会のつもりで飲もうということだったから、昨年暮れか今年に入ってすぐのはずだ。彼は長年勤めた国立大学を定年まで一年を残して南島の大学に移り、そして私は定年前に教師生活そのものを辞めて田舎に帰ることにしていた。
私は、彼とあまり仲のよくない彼の同僚とも付き合いがあり、また彼といつからかギクシャクした関係になってしまった若い教師とも付き合っていた。もちろん彼はそのことを承知しており、時に苦しい胸のうちを私に向かってこぼすこともあった。しかたがない、人間、たとえ互いに善意であっても、どうしようもない悲しいすれ違いがあるものだ。ただいつか行き違いや誤解が解けて、皆で美味しい酒が飲みたいな、と思っていた。皆、不器用なまでに善意の人だからだ。
私が静岡から八王子の短大に移ったとき、彼は私のためにスペイン思想の講座を用意してくれ、その後も機会あるごとに声をかけてくれた。いつか一緒に仕事をしよう、たとえば「九十八年の世代」の作品集を編むとか、二人ともオクタビオ・パスの最重要作品と認めていた『尼僧フアナもしくは信仰の罠』を一緒に訳そうなどと話し合ったこともある。今となっては1996年の野間文藝翻訳賞の日本側審査員としてご一緒しただけになってしまった。「三月に入ってちょっとひどい病気をしまして、それを押して沖縄、学内残務…体がおかしいままですが明後日出発します」、このはがきに何の悪い予兆も感じず、五月下旬にやっと返事を出したことが悔やまれる。彼はここ数年、他人の何十年分にもあたるいい仕事をした。仕事は残ったが、彼ともう飲めないのは寂しくてたまらない。彼、牛島信明、十三日、横行結腸がんで死去、享年六十二歳。
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