先日、ネットの古本屋を通じてオルテガ『大衆の反逆』の二つの古い翻訳本を取り寄せたのだが、二つが同じ年に出版されていたことに初めて気がついた。まず昭和28(1953)年3月に樺俊雄訳が東京創元社から、そして12月に佐野利勝訳が筑摩書房から。翻訳底本は双方ともヘレーネ・ヴァイルのドイツ語訳である。東京の樺氏と京都の佐野氏が情報のないまま同時に訳していたようだ。どちらの翻訳がいいか、いまその比較をするつもりはない。ただあの時代、わが国も大衆論が意味を持つ時代に突入したということに注目したい。政治運動でも大衆が主役になる時代が直ぐそこまで来ていたのである。
といって当時の私自身はそんな時代の流れにとんと無頓着な田舎町の中学生だった。地元の高校を卒業して東京の大学に入った昭和33年の11月27日、皇太子ご成婚で日本中が沸き立ったはずだが、ほとんどその記憶がない。唯一、馬車に向かって暴漢が何かを投げたというニュースをぼんやり覚えているだけである。大学三年の6月15日には、国会議事堂前のデモで女子学生が死んだか殺されたというショッキングな事件があったが、そのニュースをどこで聞いたか見たかも覚えていない。もちろんその女子学生の父親こそ、オルテガ『大衆社会の出現――大衆の蜂起』の訳者であることなど知る由もなかった。
実は今回、樺俊雄著『最後の微笑』(文藝春秋新社、昭和35年)も一緒に手に入れた。9月の発行だから、美智子さんが亡くなって間もない出版である。あのころ、代々木初台の学生寮に住んでいたが、ある晩、食堂に行ったら誰もおらず、黒板に料理の小母さんの筆跡で「デモに出かけます。今晩はセルフサービスで願います」といった趣旨のメモ用紙が貼られていた。もしかしたら、その夜のデモで美智子さんが死んだのかも知れない。私自身なぜ一度もデモに参加しなかったのか、ここでも記憶がはっきりしない。たぶんその頃、それまで考えてもみなかった修道者の道に進むかどうかで、心の中が風の通り道のように揺れていたからかも知れない。
先日、東京でイラクへの武力攻撃反対の3万人デモがあったそうな。でも60年安保の時代のあの高揚した民衆のエネルギーはどこに消えてしまったのだろう。今までいつも遅れてばかりの私が、ここにきてようやく時代と少しばかり波長が合ってきたというのに、今度は時代の方があの当時の闇雲なまでの熱気を失っているのである。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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