戦争や戦場を体験したことのない人の反戦は頭でっかちである。これは自ら報道記者として戦場体験のある人が述べた言葉である。いやもしかすると自らではなく戦場で命を亡くした友人を持っているだけだったのか。実は一読するや腹が立って破り捨てた(消去のキーをクリックした?) ので、実際はどっちだったか、今となっては確かめようがない。著者その人は別段好戦的な人でもないし、右翼でもない、それどころか、穏健な平和主義者だと思う。つまりそう書いたのは報道記者としての過去の経歴をちょっと自慢したくて筆を滑らせたのだろうと思う。「爺ちゃんの若い頃はなー」のたぐいである。だからいちいちつっかかる必要はないのだが…。
実体験を潜り抜けた人の言葉はたしかに重い。経験もなしに単に観念的に発言する人のそれよりも傾聴に値する、と一応一般論としては言えるだろう。しかし経験が無いから、その人の発言に重みがないか、といえば必ずしもそうとは限らない。たとえばボールを打つとか、物を売るとかだったら、確かに経験の有無は決定的である。しかし戦争とか平和とか、あるいは愛とか信頼といったもの、つまりはそれ自体、誤解を恐れずに言うなら、観念的なものについては、素朴経験主義は時に間違うのである。なに戦争が観念的だと、と即座の反論が返ってきそうだが、はっきり言って個々の戦闘と違い「戦争」は「平和」ともども、いやもっと言えば「愛」や「信頼」と同じく、すこぶる観念的なものなのだ。つまり「戦争」を経験しようとして前線に赴こうとも、そこで体験するのは耳をつんざく砲声、至近距離で肉片と化して散乱する味方の死体、失禁してもそれさえ気付かないほどの恐怖感であって「戦争」ではない。そしてそこにいるのは刻々の危険に自動的に激しく反応する筋肉の束であり、人間性をゼロまで縮小させられた「人間らしきもの」に過ぎない。だからこそ「戦争」は悪である、と認識するのは、まさしく観念の働きなのだ。
むかし「君、愛なんて理屈じゃないぜ。いろいろな体験を経なけりゃ分からんものよ」と言った御仁がいた。「色町通いで性病うつされたけど、君これは男の勲章だぜ」と言った時には、あっこいつは完全な馬鹿だ、教師になったのが間違いだ、と思ったが、馬鹿相手に喧嘩する気にもなれない。私もいい歳になってきたが、素朴経験論で若い人に説教するじじいにだけはなるまい、と肝に銘じている。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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