探していた『千鳥』が見つかった。作者名と題名は思っていたとおり。しかし出だしは違っていた。
「千鳥の話は馬喰(ばくろう)の娘のお長で始まる」であった。お長は主人公が休みごとに逗留する家に出入りする聾唖の娘。そして密かに私の恋したおフジさんは富士ではなく藤であり、この家とは幼いときから知り合いの大佐の娘で、少し前から遊びに来ていた若い女で、主人公とは初対面である。舞台はたぶん福岡の在、お藤さんがある日忽然と帰っていく先は能古島か。いやいいかげんな推量は慎もう。ともかく季節は春ではなく秋であった。ただしこの間違いは無理もない。なぜなら冒頭「小春の日の夕方」とあり、中学生にとって小春が秋だとは気付かなかったろうし、文中しきりに「春」という言葉が出てくるからである。
手紙を書いている主人公(病上がりの学生)のところに藤さんがやってきてこんな会話が交わされる。
「この頃こんな花が」
「蒲公英(たんぽぽ)ですか?」
…………
「本當にもう春のようですね、こちらの気候は。」
「暖いところですのね。」
二人が以後あい見ることが無い最後の日、藤さんも一緒に水天宮まで行きたそうだったが、タイミングが悪く主人公一人が出かけていく。行く先でお長の家族に誘われて馬鈴薯掘りを手伝ったりして意外に時間をとられ、帰ったときにはすでに藤さんがいない。急に迎えに来た男に連れられて、隣町の港に向かった後であった。急いで裏山に上り、遠くに浮かぶ白帆に別れを告げる。
主人公はお藤さんがなぜときおり泣いていたのか、なぜ親もとを離れて島に暮らすようになったのかを、いっさい知ろうとしない。
「藤さんは現在どこでどうしてゐても構わぬ。自分の藤さんは袂の中の藤さんである。藤さんはいつでもありありとこの中に見る事が出来る」。
中学生の私が、おそらくこのあたりの主人公の気持ちに強く共感したのであろう。そして千鳥が、お藤さんが机の引き出しに形見として置いていったその「緋の紋羽二重に絳絹(もみ)裏の附いた、一尺八寸の襦袢(じゅばん)の片袖」の紋柄のことだということも今回の再読でようやく思い出した。
昭和29年発行の角川文庫はもうすっかり黄ばんでおり、活字も鮮明とはいえないが、今回、同じ文庫の『桑の実』、『古事記物語』と一緒にして、藍染めの布表紙、鼠色の背革の合本に作り変えた。今度はいつ読み返すのだろうか。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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