今日も昨日に引き続き文庫本の整理。岩波文庫の『蕪村俳句集』と『蕪村書簡集』に萩原朔太郎『郷愁の詩人与謝蕪村』を加えて一冊に、そして『一茶俳句集』と『父の終焉・おらが春』を、角川文庫の『平家物語』上下をそれぞれ合本とした。次いで中勘助の『銀の匙』、『鳥の物語』、『随想集』(以上岩波文庫)に新潮文庫の『中勘助集』を加えて一冊にしようとして、念のためリストを調べたらまだ『蜜蜂・余生』があるはず。しかしどこに行ったのか見当たらない。それに読んだ記憶もない。どちらにしても以上4冊ですでにかなりの厚さになり、さらに一冊加えるには無理がある。このままで合本にしよう。
しかしそこで作業が止まる。この『銀の匙』は昭和27年発行(第23刷)のものだが、黄ばみどころか全身が茶色に焼けていて、もう少し乾燥が進めば、粉々になって風に舞いそうである。しかしこれは『千鳥』より前に読み(おそらく中学一年生のとき)、深い感動を覚えた作品である。もしも文学に目覚めるきっかけは何であったかと問われれば、この『銀の匙』を真っ先に挙げなければならないであろう。
月夜の晩、肘かけ窓のところで幼い恋人のお薫ちゃんと二人、月の光の中で神秘的なまでに美しい自分たちの「二の腕から脛、脛から胸と、ひやひやする夜気に肌をさらしながら時のたつのも忘れて驚嘆をつづけてゐた」というシーンは今でも記憶に鮮明である。漱石に絶賛された処女作以降、地味な作風を最後まで貫いたこのまさに孤高の文人は、長らく私の視界から消えていた。しかし私とはまさに対蹠的な性格らしく、だからこそ老境に入った(などと主観的にはぜったい思っていないが)私にとって一つの憧れの日本人である。
病弱な幼少時の主人公が腫物の薬(烏犀角)を飲むときに使ったこの銀の匙のようなものは、北海道から満州、その満州からの引揚げと波乱の幼少期を送った私にあろうはずもない。しかしもしいま、魔法で好きなものを取り戻してくれるといわれるなら、さて何を頼もうか。いったん配給になったのに間違いですと言われて取り上げられたドロップ、お前は満人からの貰いっ子だと言われて或る日妙に懐かしく思えた青磁の茶碗(のかけら)、引揚げ途中、高台の廃墟に散らばっていた鉛の活字(欲しくて夢にまで見た)と色鮮やかな小さなタイル、やはり逃げる途中に寄った奉天の親戚の子が集めていたグリコのおまけの兵隊人形……
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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