午後、ネットの古本屋から『熱河日記』(平凡社東洋文庫、上下)が届いた。18世紀朝鮮の実学派の巨匠・朴趾源(1737-1805)の作品である。1780年、清の高宗(愛新覚羅弘歴、1711-1799)70歳の寿の祝賀式に参列するため朝鮮から派遣された正使に随行した作者が、北京、熱河を旅したときの記録である。それも単なる紀行文ではなく、旅の途次出遭った知識人や商人たちとの筆談、随筆、短編小説、地誌など実に多様な内容を含んでいるらしい。
巻頭に当時の地図が載っているが、なんと私の一家がかつて住んだ町の名前が出ていた! つまり現在の河北省承徳にあたる熱河と、万里の長城に接する古北口とのちょうど中間のランペイ(灤平)という町である。今は何と言う町になっているのかは知らないが、少年時の思い出の中では、町というより集落であり、四方がちょうどスペインのアビラのように城壁(防壁?)に囲まれ、ところどころに望楼がはめ込まれていた。望楼の中には古びた銃が散乱しており、錆びた鉄の部分と、その鉄よりも堅そうな銃床の冷たい感触を今でも思い出すことができる。
満州特有のなだらかな裸山が城壁の外に広がり、鉄路が町を囲繞していた。しかし東西南北どちらの方角だったかは知らないが、高い山々も遠くに見え、時おり出没する匪賊征伐に何個小隊かの日本兵が出かけていったことも覚えている。しかし今匪賊などという言葉を使ったが、それは当時の日本軍の言い方であって、本当は解放軍つまりパルチザンだったのであろう。もしかすると、最近お友だちになった内モンゴル自治区からの留学生O. Gさんのお父さんも、若いとき、あのあたりの解放軍で戦っていたのかも知れない。匪賊なんてとんでもない言いがかりである。
ところで今回、その地図を見ながら、北京が意外と近い距離にあったことを初めて知った。あるとき離宮のようなところに連れていかれた記憶もあるが、もしかしてそれは承徳にあった清朝皇帝の避暑山荘だったかも知れない。そしてこれもあるとき、トラックに乗って山の中の祭見物に出かけたことがあるが、あれは古北口だったかも。その時の集合写真が今も残っている。たぶん夫を亡くしてまだ日も浅い若い学校の先生(バッパさん)の側で指を咥えたギョロ目の少年が立っている。もちろん私だ。
そうだ、朴趾源と一緒に熱河を旅しながら少年時代に帰ってみよう。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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