天の恵みのような一日であった。天気予報ではたしか曇りのはずだったが、朝から日差しが強く、もしかすると快晴の一日になるかも知れない。昼前、大熊へ出発する時も日差しの強さは少しも衰える気配がない。このままなし崩しに梅雨に入っていくのか、と思っていたから、この快晴の一日はまるで宝石のように貴重に思われた。だから少々の不如意も我慢しなければと思う。
不如意、いやつまらぬことである。要するにまだらボケである。老人ホームの会計で月の支払いの時だ。97,387円、それでは387円、と細かい方を用意してトレイに載せて出した。「あのすみません、九万七千円なのですが」。見るとトレイの上に乗っているのは、一万円札一枚と硬貨。「あっそうかすみません」とあわてて八枚の一万円札を出す。「あのー、七千円が…」「あっほんとうだ、すみません」とさらに一枚追加。いつも感じのいい応対をしてくれるお嬢さんになんて思われただろう、と車で待っていた妻に言うと、「ここに来る人はいろいろ気苦労が多い人ばかりだから、分かってくれるわよ」とおっしゃる。そうだったらなおさら恥ずかしいのだが。車を動かそうとして、ふとドアのポケットを見ると、先日どうしても見つからずに再発行してもらった銀行のキャッシュ・カードがある。どうしてこんなところに。まるで狐につままれたようである。
あゝこれが老いるということか。そうだ、妻はしょっちゅうこれを味わわされているんだよなー。そういえば子宮筋腫全摘のとき、全身麻酔されてボロ雑巾のような姿で手術室から運び出されたときのことを思い出す。数年前も、ヘルペスという奇病で激しい頭痛を経験。入院後、あわてて百科事典を調べるとヘルペスが脳に来ると致死率50パーセントとあり青くなったこともあった。幸い今は元気だが、たぶんそのためもあってか記憶力が減退し、しょっちゅうポカをやる。そのたびに「記憶の方は俺が受け持つから、ともかく2メール以内のところを付いてきな」と言っているが、言われる方は辛いだろうな、と改めて思う。
いいよいいよ、ちっちゃな物忘れなど気にしない気にしない。「忘却とは忘れ去ることなり、忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」(『君の名は』)というのが本当なら、そうだ、忘却を誓うほどの不幸を味わうことが無かったことを奇貨として、残りの日々、少しずつボケながら夢のように生きていこう。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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