一応は日刊紙を購読してはいるが、朝方早めに読んでおかないと、バカ犬のオシメの下敷きになってしまう。時折切り抜こうかなと思う記事があっても、気が付いたときは時すでに遅く、無残な下敷きになっている。いや、もって回った言い方になってしまったが、最近まじめに新聞を読む気がしないのだ。昔、ある時期まで、いわば神秘の光暈を放っていた浅陽新聞の「○声○語」も、今では少ない字数をきちんと踏まえて書いているのだろうか、と疑えるほどの緊迫感の無い文章で、いつのまにかそれさえ読まなくなってしまった。
さて今日もいつもの本棚の整理で、その「○声○語」の戦後すぐのものを収録した文庫本が見つかり、ぱらぱらとページをめくってみた。最初の文章は、昭和20年9月6日、つまり東京版で初めてそのタイトルでのコラムが始まった日である。「敗戦」と題するその文章を読んでみるとさすがに古臭い文体で、数日前まで大本営の発する日本語とさして違わぬものを書いてきたその余韻がまだ棚引いているような文章である。
つまり後の平明で、しかも含蓄に富む日本語にはまだなっていないのだ。たとえば最後の文章など、その感覚の古さにはとてもついていけない。
「首相宮殿下は、特に言論洞開を強調遊ばされた。この御言葉を戴いて、本欄も<○声○語>と改題し、今後ともに匪躬の誠心を吐露せんとするものである」。洞開 (どうかい)とは「広く開く」と言う意味で、匪躬(ひきゅう)とは「一身を省みずに君のために尽くす」という意味らしいが、敗戦の日から二十日しか経っていないことを割り引いても、新聞人としてなんとも情けない表現を使ったものだ。本棚にあった1-5巻のうち、はじめの四巻 (1945-1963年)のほとんどは新柿英雄が書いたものだが、それとてもかなり荒っぽい文章であることに変わりはない。昭和22年の「タバコ縁起譚」の最後で「タバコを買えるやつは国家財政のため大いにすうがよし。買えぬ者は、一日中電車に乗ってる気でがまんすべし」というのはとてもじゃないが笑えない。昭和27年の「パンパンと外貨獲得」などよくもこんな文章を [自称] 大新聞に載せたなとびっくりする。ようやく知性と教養が滲み出てくるのは、昭和38年、執筆者も入絵得朗に代わったあたりからである。衣食足りて礼節を知るということか。となると、現在の「○声○語」は、衣食足りすぎて緊張を欠く、ということになりそうだ。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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