十勝上士幌に住む母方の従弟安藤御史さんから、古い小さな一枚の写真が送られてきた。本当に小さい。縦二・七センチ、横三・六センチ、つまり三五ミリフイルムのベタ焼きということなのだろうか。その小さな画面に総勢十一人が写っている。まずいつごろのものかといえば、姉が一歳半くらいで季節は夏、場所は帯広だろう。ということは、昭和十三年夏か。つまり私はまだこの世にまったく存在していないときの写真である。写っているのは、母方の祖父母、幸子叔母、平三郎叔父、それに父と母、母の膝上の姉、兄とはほとんど歳が離れていないのに叔父だからと頑張ってだっこしているのか、兄の後ろにほとんど埋れているいちばん若い永治叔父。
しかしうち二人がどうしても特定できない。仕方なく、夕食前にバッパさんに聞いてみる。三つ編みを両脇に垂らした若い娘はお手伝いさん、そして祖父の横の老人は曽祖父の平松じいさんとか。ちょっと意外であった。というのは、祖父は婿入り先の田畑すべてを株で失い、それで開拓団に加わって十勝の山奥に入植せざるをえなかったはずだが、舅の平松さんがのこのこ北海道くんだりまで婿さんに付いて行ったのだろうか。いやそれよりも、昭和十三年まで生きていたとは知らなかった。もしかしてバッパさんの記憶違いか?
それにしても便利になったものだ。そんな小さな古い写真でも、デジカメで撮ってパソコンで引き伸ばしたら、セピア色のいい感じの葉書大の写真になるのだ。大きくなった写真を改めて見てみる。後ろに何も無い原っぱのようなところでみんな笑っている。最後列の田宮二郎風のいい男は、二十七,八歳の若い父だ。三年後には満州に渡り、それから三年後には、異国の地に家族を残して無念の死を遂げる父。もう少しで父の二倍の時間を生きるころになって、ようやく父のことが気になりだした。実は今回の写真も、今年の十二月、父の命日あたりまでに、なんとか父の生の軌跡を小冊子にまとめようと、親戚縁者に写真やら書簡やらの借覧をお願いしたことへの反響の一つだったのである。
だがまだほとんど資料が集まっていない。資料がないのは、とうぜん予想されたこと。要は、この機会に父のことを初めてまともに考えてみようという気になったということ、だろう。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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