気がついてみたら、このところ「日録」がほぼ千字になっている。ときにオーバーして何回か字を削らなくてはならない。つまりこれは、一昨年夏から昨年夏までちょうど一年間続けた「モノディアロゴス」形式に戻っている、ということである。そして無意識裡に、書き方もモノディアロゴス方式になっている場合がある。といって、自分の中ではっきり区別ができているわけではない。いや、もともとはっきり区別して始めたものでもなかった。でもまた始めたいのであろうか?いや、いまはその元気はない。ノルマとしてなら、おそらく書く気力は湧いてこないであろう。いましばらく自然の流れにまかせておこう。
ところで肝心の『モノディアロゴス』出版の方だが、このところ行路社のK氏から連絡がぴたりと途絶えている。K氏のことだから、忘れているわけではなく、必ずや出版に向けて奮闘していると信じてはいるのだが…気楽に問い合わせた方がいいのかも知れないが、問い合わせるのがちょっぴり怖い(?)のかも知れない。とにかくもう少し待ってみよう。
話は変わるが(日録なので変わって当然なのだ)、今日の集積所回収は紙類。それで広告紙を袋に詰めて持っていったのだが(新聞紙はクッキーのオシメをくるむのに必要だから一枚も入っていない)集積所近くの道路を、背広姿の一人のサラリーマン(三〇代後半か?)がビニール袋を片手に、もう一方の手には火挟みのようなものを持ってゴミを拾っているのだ。目が合って互いに軽く会釈したが、偉い人もいるもんだ。近所のゴミ当番の人だろうか、それとも「街をきれいにしよう」運動かなにかの会員なのだろうか。それともどっかの宗教団体の信者さん?勝手な言い草だけど、そのいずれでもなく、まったくの個人的行為だったらなおのこと素晴らしい。心からの、掛け値なしの尊敬に値する。
そして私自身がそのような市民の一人に、無理や気負いもなく成りおおせるとき、あゝそのときこそ街はきれいになり、日本はまともな国になり、そして世界は平和になる。それこそが、つまり私自身がそのような人になることが、いちばん難しいんだよなー。いや、まったく。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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