黄金色に輝く稲穂の波

ウメさんには、もうこちらを認識する力はないのか。今日も目を開けてはいるがこちらからの話しかけに答えることはない。しかしこうして生きていることそれ自体が、大いなる恵みであるし、生きていることの意味を静かに語りかけていると思いたい。静かにベッドに横たわったまま、これまでの生の瞬間瞬間を、頭蓋のスクリーンに映し出して、それをゆっくり反芻しているウメさんの存在が、例えば人類の現在と未来にとって無意味であるはずがない。
 実はそんなことをつくづく考えさせられたのは、大熊までの沿道に広がる黄金色の稲穂の波、あたりを領する不思議な光に心が満たされる思いをしたからである。このえも言われぬ感動はどこからくるのだろう。堪(こら)えなければ、涙が溢れ出たかもしれない。もちろん何か悲しいことがあってセンチメンタルになっていたわけではない。この大自然の美しいページェントを前にしたらだれでも感動するはずの光そして色だったのだ。
 そう言えば、絵心などまったくなく、描くこともまた不得手の私が、過去唯一写生大会で入選した絵が、この秋の稲穂の波を描いたものであったことを思い出した。中学生のときのことである。構図なんて考える余裕などなかった。ただただ眼前に迫る黄金色の稲穂に感動して、僅かな濃淡を見せてひろがる秋の稲田を画面の三分の二ほどに大きく描いただけのものであった。残っているはずもないが、今一度見てみたい気がする。
 そして今日は、道端に咲き乱れる可憐な花々にも心が締め付けられるような感動を覚えた。可憐に、健気に咲き乱れる名も知らぬ草花。通りすがりの見ず知らずの者にも自分たちの美しさを見せようとするこの無償の愛。私の住む町にも、いたるところ草花が咲き乱れている。もちろん誰かが手入れしているのだろう。こういうやさしさがあるかぎり、いつか世界に平和が実現すると思いたい。
 恥ずかしながら、いままで自分はそうした形で他人を喜ばせたことはない。でももしかして毎日細々と書き綴っているこのつたない文章たちも、どこかで落ち込んでいる誰かを励ましたり、微苦笑を誘っているのかも知れない。そんなことを考えて、今日は久方ぶりに『続・モノディアロゴス』を何部かプリントアウトして、このごろ足腰がままならぬとしきりに電話口でかこつK市の従姉などに郵送することにした。私なりの「花いっぱい運動」である。


【息子追記】立野正裕先生(明治大学名誉教授)から頂戴したお言葉を転載する(2021年3月11日記)。

先生がここで言われる黄金色の稲穂の波もそれを眺めたときの感動も、すべてわたしにも覚えがあります。それでも奇妙なことに、一読しながらわたしに連想されたのは、ゴッホの描いた麦畑の絵でした。最晩年の画家の目に、黄金の色をした麦畑はこのように映っていた。それは感動と呼ぶにはあまりにも衝撃が実存的で、胸騒ぎを禁じ得ないような光景だった。佐々木先生は稲穂の波を前にして、ほとんど啓示にも似た感動を経験なさった。わたしにも覚えのある感動です。しかしそのいっぽうで、ゴッホの末期の目が見た黄金色の麦畑のあの光景が、なぜか思い合わされるのです。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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