夏に一度お会いするはずが、双方雑用(いや、これは当方のこと)にかまけて連絡が途絶えていた。ところが四日前、ケータイの留守録に、今週木曜のスペイン語教室にお邪魔するから、との連絡が入っていた。さて当日、スペイン語教室(といっても目下のところHさんと妻だけ)の会場に使っている音楽室のドアをそっと開けて約束どおり彼女が来てくださった。プロのボサノバ歌手■さんである。
彼女のことは、原町移住後ほどなくして噂で知ることになった。実は彼女、原町を拠点に演奏活動をしている、と。コンサートなどがあれば行ってみようと思ってはいたが、その機会がなかなかやってこなかった。そして今年の夏、たまたま見つけた彼女のホームページを頼りにメールで連絡をとってみた。一度お会いしましょう、との連絡があったが、前述のとおり、以後ぱたっと連絡が途絶えていたのである。
予想に違わず静かな物腰の魅力的な女性である。一人で演奏活動をするというのは、並大抵のことではないので、そういう方には強烈な個性の持ち主が多い。でも彼女はどこにそんな情熱を秘めておられるのか不思議なほど、柔らかなお人柄である。
スペイン語の勉強はまたのことにして、廊下の隅にある自動販売機で買ってきた温かいコーヒーを飲みながらのおしゃべりが始まった。フォルクローレ練習の時間に移っても、今日は常連の二人の高校生が、風邪と風(つまり田舎道を強風に逆らって自転車をこぐのが不可能)のため休んだので、さらにおしゃべりが続く。
田舎で文化活動(?)をすることの難しさについて水を向けると、それはまったく感じていないとの答えが即座に返ってきた。仙台や東京でもコンサートをやっているが、演奏を終えて原町に帰ってくると、わが家に帰ってくるときの安らぎを感じるそうだ。確かに東京など同業者がかたまっているところは、刺激があるかも知れないが、なにか調子を合わせるようなところがあって、むしろ田舎で孤立して活動している方が、個性的に、自由にやっていけるそうだ。
お話をしながら、彼女はHさんのギターの調弦をしていたが、ふと私たち三人のために「イパネマの娘」の弾き歌いをしてくださるという。思いもかけない贅沢で感動的な即席コンサートと相なった。まさにボサノバを歌うために備わったような、温かで、それでいて透明感あふれる美しい歌声だった。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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