バッパさんをセンターまで迎えに行こうと下に降りていったら、ちょうど郵便配達屋さんが冊子小包を二つ届けてくれた。アグネス・スメドレー『中国の歌ごえ』(高杉一郎訳)、みすず書房、一九五七年)と浜野健三郎編著『あゝ満州』(秋元書房、一九七一年)である。名前だけはぼんやりと知っていたが、今回スメドレーの作品が一挙に四冊も手に入った時点で、著者がとてつもなく偉大なアメリカ女性(アグネスという名前から当然知っていなければならないのだが)であることに初めて気がついた。それにしても『大地』のパールバックにしろこのスメドレーにしろ(そして『菊と刀』のルス・ベネディクトも)、どうしてほぼ同時期にアジアについて深い洞察力を発揮したエネルギッシュでスケールの大きいアメリカ女性が輩出したのであろう。いつかじっくり考えてみたい。
もう一つの『あゝ満州』は大型の写真集で、表紙を飾っているのは、綿の入った満州服(?)を着て満面笑みを浮かべて驢馬に乗る二人の少年の写真である。旧満州各地の写真が収められているが、目次に「秘境熱河」というのがあった。ページをめくるとあの有名な大ラマ廟と古北口付近の裸山を縫う万里の長城の写真があった。なるほど秘境か、遅く入植した者には辺境の地が振り当てられたのか、それとも自ら志願したのか。
恥かしながらこの歳になって、初めてまともに父と向かい合っている。医療設備など何もない「秘境」で疲労のため肺をやられ、夢破れて病床につかねばならなかった三十四歳の父のことを考えている。彼の胸の中に吹き込み、わだかまり、また吹き抜けていった思いは何であったのか。朦朧とした意識の中の天空で、なおも彼を鼓舞し支えていた夢はどんな夢であったのか。
今年の命日前まで何とか記念の文集を作るつもりだった。しかしいろんなことがあって、とりわけ息子のお嫁さんになってくれた頴美さんとの出会いがあって、文集発刊をいま少し延ばそうと思い始めている。つまり単なる思い出だけでなく、少なくてもこの時点で考えられること、つまり父や家族の「満州」体験の意味を考えるヒントになるようなことだけはまとめておきたい、と思い直しているところなのだ。旧満州関係の数十冊に及ぶ「文献」を購入したのもそのためである。その父の命日が今日十二月十八日である。生きていれば九十四歳。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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