「僕のすぐ横では青く筋張った顔つきの病身の夫を座席に坐らせ、自分は子供二人も抱えて通路に立ってゐる満人の女がゐた…又傍らにアッパッパの日本女が四人の子供を連れてゐた…子供はしかっめ面をしてゐる。足を置く座席が足りないと母親はそれを支えてゐる。さきの満人の女は少し身体をひねってトランクを持って来てその上に日本人の子供の足をのせろと手真似をしている。彼女自身の子供はゆかの上で、前髪丈残した坊主頭で支那服のすそから可愛らしい足をのぞかせてぐっすり眠っている…」
今日の午後読んでいた島尾敏雄の「満州日記」の一節である。昭和16年に同人誌『こをろ』に発表したものである(原題は「熱河紀行」)。全集では紀行文として分類されているが、もちろん小説家のそれであって、私としては並みの小説以上の小説として読んだ。これは同じ年、九州帝大法文学部経済科から文科に再入学して東洋史を専攻した島尾敏雄の、その夏の熱河への旅行記である。旅行記は承徳に着いたところで唐突に終わっているが、実際はそのあとランペイに住んでいた私たち一家を尋ねるのである。千々和という友人が同道したことになっているが、もちろん当時2歳になったばかりの私にそのときの記憶が残っているはずもない。そのときのことを記録した一枚の写真があるはずだが、まだ探し当てていない。予定より大幅に遅れている亡父の記念文集にどうしても収録したいと探しているのだが。
先ほど小説として読んだと書いたが、たとえば志賀直哉の「網走まで」を連想したからだ。旅先で出会った若い母親たちと幼い子供たちの生態が、変に生々しく描かれており、旅人の不安定な感受性に映った日常的でありながら非日常的な不思議な光景が印象的である。文中「満人」という表現は、今では満州人あるいは満州族と言わなければならないのでは、というような気遣いは不要なほど、ここでは日本人と中国人の間に微塵も差別的要素が混入していない。
実は明朝、いま大連で滞日ビザ発給を待っている息子の嫁が、同じく大連で勉強している弟と、撫順近郊の実家に春節の帰省をすることになっていて、季節は夏と冬でまるっきり異なるのだが、なんだか懐かしい気持ちで「満州日記」を読んだのである。近い将来、私たち夫婦も窓外に流れる旧満州の景色を眺めながら、里帰りをする彼女と共に旅をするんだろうな、と思い出の先取りをしながら。