実は、これからご紹介しようと思っている私宛ての私信は、このところ何回かご登場願っている西澤龍生氏からのものである。なぜあえて公表しようとするか、それについては既に述べた。本当は実物をそのままご紹介したいのだが(なぜ実物などと言うか、その理由も後回しにする)、それは技術的に(?)無理なので、私が読みえたものをデジタル文字にする。昨日も言ったように、まず解説というか注記しなければならないことがあった。すなわち歴史的仮名遣いと正字、その対極にある現代仮名遣いと当用漢字(そして常用漢字)についての確認だが、それをやっていれば今晩もご紹介できないので、ともかく以下にお目にかけよう。
とここまで書いて、いざネットに載せようとしたのである。しかし最後ギリギリのところで踏みとどまった。便箋6枚にわたる実にご丁寧なお手紙、万年筆だから墨痕鮮やかなとはいかないが、先生若かりしころから藤岡保子先生という書家に師事された筆跡はさすがで、できればそのままコピーしたいくらいである。
いやいや最後の段階で踏みとどまったのだ。なぜか。ちょっと説明は難しいが、先日ご紹介した二通のお手紙と違って、あくまでそれは私的な書き方であり私的な内容の、文字通りの私信だからである。ともかく、お手紙をそのまま公表するのは今回はあきらめよう。ただ、ドイツ留学中、どのような経緯でオルテガと出会われたかとか、先日来話題にしてきた「エル・エスペクタドール」の訳語についてのお考えだとか、『スペイン 原型と喪失』執筆のご苦心や裏話など、興趣尽きない言及については、いずれ小出し(?)に御紹介するつもりである。
なんだか一人で大騒ぎしたようで、そして思わせぶりな書き方で、読んで下さっている方々を「引っ張って」しまったとしたらお詫びしなければならない。
ただ自分自身にかかわることとなると、いままでどおり、つまりプライバシーについての考え方は、世間の考え方と大きくずれたままで生きていくことになろう。このモノディアロゴスの名付け親ウナムーノを引き合いに出して申し訳ないが、おそらく彼もある時点で(脳水腫の息子ライムンドを四六時中視野に入れながらの読書・執筆の中で)、まるで甲殻類のように互いに内面を隠しながら生きていくことの愚かしさ・空しさから脱皮していったように、私も最近は特に、内面を吐露することになんの恐れも感じないようになって来た。もちろん他人にもそれを求めることはしたくないし、またすべきでもないが。
【息子追記】長年の愛読者の阿部修義様からコメントいただいた(2021年1月24日)。
「内面を吐露することになんの恐れも感じない」。私にとっての『モノディアロゴス』の魅力はそこにあるのかも知れません。私の心の奥底には人には決して言えないものが残留しています。その残留したものと不思議なように共鳴するものが『モノディアロゴス』の中で発見することがありました。