西澤氏のお手紙は、すべて旧仮名遣い(正式には歴史的仮名遣い)と正字で書かれている。以前より氏が歴史的仮名遣いで書かれていることは知っていた。もちろん御本の出版に際しては、ほとんどの場合、つまり御自身の文章を雑誌などで発表されるときを除いて、出版社の要請で新仮名遣いにされていたようだが。
ここで恥ずかしながら白状しなければならないのは、今までまともに仮名遣いのことを考えたことが無かったということである。だから時おり旧仮名遣いで頑張っている人を見ると、そこまでこだわらなくてもいいじゃないか、と考えていた。私の年代は終戦後最初の小学一年生だから、いわば新仮名遣いをお乳を吸うように、なんの抵抗も感じずに受け入れ、その中で育ってきた。もちろん時おり気にはなっていた。たとえば蝶々のことを「ちょうちょう」と書くより「てふてふ」と書いた方がはるかに蝶々らしいとか、「でせう」よりか「でしょう」の方が実際の音声に即しているのではないかとか、正字はあまりに画が多すぎて厄介ではないか、などと漠然と感じてはきた。
ところで西澤氏は1928年のお生まれである。敗戦を17歳で迎えたわけで、すでに旧仮名かなと正字で人格形成を終えられていたわけだ。人によっては、旧かなから新仮名への変化は、日本という国の国体が変わるのと同じ、いや内的変化という意味では、それよりもっと大きな変化であったかも知れない。しかし大多数の日本人は以後、多少の違和感を覚えながらも、新かなと俗字に切り替えたわけだ。
旧かな問題に関して、福田恒存などがしきりに問題提起をしていたときも、遠い対岸の火事くらいの感覚でやり過ごした。時おりすっ頓狂なやつがアスファルト路を不快な音を立ててほう歯の下駄で闊歩するのに似て、いかにもこれ見よがしのパフォーマンス並みに見ていたこともある。しかし年輩の「守旧派」だけでなく、ときに私より若い人が旧仮名や正字に興味を示したり、実践しているのを見て、暇があるときにちょっと調べてみようかな、という気持ちが湧いてきた。若い友人「ゆう」さんは、自分のサイトに「抑鬱亭日乗」などという旧かな遣いの日記も書いている。
そんな折、西澤氏からの来信である。いよいよ真剣に考えてみようという気になってきた。もちろんこの歳になって旧仮名遣いに乗り換えようなどと思っているわけではない。しかし歴史的仮名遣いから現代仮名遣いへの、いわば上からの強引な路線変更が果たして適切なものであったのかどうか、現代仮名遣いに変えたことによって、何を得、何を喪ったのか、一度じっくり検討して見なければならないのでは、と考えているのである。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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