小川国夫の初期小説をいくつか読んでいるうち、そういえば昔、彼のある小説の執筆過程でお手伝いしたことを思い出した。あれはいつごろ、そして何と言う小説だったろうと気になりだした。後にも先にも、小説家の創作過程で、なにほどかの貢献をしたなんてことはあの時だけだったからだ。さて手がかりは小川氏の手紙である。早速ファイルを取り出した。たぶん便箋にスペイン語が書かれているはずだと思い、それらしき手紙を探して行った。
どうもなさそうである。いずれにせよ、初めて藤枝のお宅を訪問したころの手紙のはず。あった!昭和43年1月2日の消印が押された罫線のないB5の大きさの便箋2枚の手紙である。注意深い読者(?)はすでにお気づきだろうが、創作のお手伝いをしたなんて大層なことではなく、作中人物の話すスペイン語について少しばかりお手伝いしただけなのだ。
「一つお願いがあります。最近「三田文学」への三十枚ばかりの小説を書いているのですが、中に若干スペイン語(片言)を入れないと話が進まない感じになり、弱っております。これは私のスペイン旅行に材をとっているのです。彼の地へ行った時には、私は即席にカタコトをおぼえ、なにやら喋ったのですが、今となると全然駄目です。私がヤリトリしたようなスペイン語ですから、やさしいものです。別紙にそれを、フランス語と日本語で書いておきました…」
これでスペイン語が書かれた便箋が無いことの理由が分かった。つまり別紙に書かれたフランス語と日本語の会話文の余白に直接解答(?)を書き入れて送り返したからだ、。「昭和43年」と「三田文学」を手がかりに小沢書店版「全集」を探して、それが「大亀のいた海岸」という短篇であることが分かった。
カディス近郊の田舎町に単車でやってきた日本人青年と、そこで知り合った不良少年や、その少年が気を利かせて(?)宿屋に連れてきた派手な服装の娘とのあいだに交されるスペイン語だから、なるほど文法的にそれほど神経質になる設問ではないはずだ。どういう解答を書いたか、そのカタカナ・スペイン語でおおよそは分かるのだが、土地の者たちが話すスペイン語にしてはどうかな、と思う箇所がいくつか気になる。しかしそれは主人公が耳で聞いたスペイン語を、彼なりに分節化したスペイン語なんだからと、もし誰かに間違いを指摘されたら、そう言い訳しよう。
いやそんなつまらぬことはどうでもいい。「大亀のいた海岸」を読んでいくうち、かつて私自身も経験した真っ青な空の下に目の痛いほどの白さで輝いている家々、陽の差すところから日陰に入ったときのひやりとする感じ、地中海、いや違った大西洋の潮風や匂いまでが蘇ってきた。島尾敏雄が言うように(文字通りの評語ではないが)、ギリシアやスペインを描く小川国夫は、東海のほとりを描く小川国夫よりはるかに自由で、瑞々しく、まぶしいほどに魅力的だ。