先日、馬鹿な政治家の日本人単一民族説が話題になった。単一であることを至上の価値とみなす迷妄は、ついにはヒットラーのアーリア民族至上主義に発するホロコ-ストや、1990年代、ユーゴスラビア崩壊後に勃発した数々の紛争での民族浄化の愚行にエスカレートせざるをえない。狭隘でゆがんだ国粋主義の末路がいかなるものか、われわれは歴史上何度も痛い目にあってきたのに、同じ間違いが今日も世界のいたるところで繰り返されている。
最近、「朝日新聞」の「ニッポン人脈記」というコラムで、十回にわたって「ここにアイヌ」という連載があった。以前、武田泰淳の「森と湖のまつり」に触発されて(といって、実はまだこの小説さえ読んでいないのだが)アイヌ問題を勉強しようと思ったのに、あれ以来すっかり放置したままなので、興味深く読んみた。いろいろ新しい事実が分かってありがたかった。暴走族総長あがりの俳優・宇梶剛士がアイヌの血を引いていることや、前から名前だけ知りながらいつか読みたいと思っていた哲学者・花崎皋平氏が、幕末以降の和人によるアイヌ抑圧を告発した松浦武四郎について『静かな大地』を書いていたこと(さっそくネット古本屋に注文)、若いアイヌたちがいろいろな形で自分たちのアイデンティティを模索し始めていることなど。
先日我が家に滞在した叔父とも話したことだが、天保年間に八戸から相馬に天秤棒に赤子を載せてたどり着いた(荷車を引いて、と思っていたが天秤棒だとのこと)母方の先祖は、もしかしてアイヌの血を引いていたのかも知れない。というのは、仁ばあさん(私の祖母)は昔からその顔の輪郭がアイヌ的であり、口元の刺青があればまさにアイヌだったからである。
もちろんこれは、もしもそうだったら嬉しいな、面白いな(?)とある種の誇りをもって言っているのである。つまり例の代議士たちとは180度反対の価値観・民族観からの願望である。
今日の午後、川口から孫たち(2、4歳の男の子)がやって来て、ばたばたしているので、せっかく再開したモノディアロゴスもあやうく休みそうになったのだが、同志社大学のT教授からのメールで、この二日間モノディアロゴスが動いていて嬉しかった、というメールがあり、十二時前になんとしても今日の分を、と張り切ったのだが、尻切れトンボになりそう。また明日続けます。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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