「夜のネコの鳴き声などで精神的苦痛を受けた」として、自宅の庭に来る野良猫へ餌やりをしていた将棋の加藤九段名人を相手取り、近隣住民(三鷹市)が、餌やりの中止や約640万円の損害賠償を求める訴訟を起こしたという(「朝日新聞」、12月11日付け)。
これはなかなか難しい問題である。えっ!そうかい?難しくも複雑でもない、いとも簡単な問題と違う?加藤さんになついているというなら、まず加藤さんが猫の避妊・去勢手術をする(あるいはその善良な近隣住民が加藤さんにお願いする)、集合住宅ゆえに加藤さんがその猫を飼えないというなら、手分けして里親を探してやる…
難しい問題ではないが、確かに厄介な問題ではある。しかし近隣住民は何を考え、何を望んでいるのだろうか?加藤さんが餌をやらなければ、猫たちはどこかに行くだろう、と?でもそれは、問題をたらいまわしにするだけで、いま世の中全体に広がっている「見て見ぬ振り」をすることである。「見て見ぬ振り」をすることを、もちろん誰も責めることはできない。電車の中などで、乱暴狼藉の現場を悔しいけど「見て見ぬ振り」をすることなど、だれにだってある。
でも今回の新聞記事を見て、なぜか胸の中にゴロンといやな固まりが残るのは、飢えた猫の親子を見るに見かねて餌をやった人(それが名人だからではない)を訴えるその心根の狭さである。実は私自身、以前八王子に住んでいたころ、野良の親子に餌をやっていたことがある。一時期は、その親子以外にえさをもらいに来た文字通りのドブ猫を入れると、合計十匹ほどの猫に餌をやっていた。もともと猫は好きな方ではなかったが、餌をやっているうち、だんだん好きになっていって、最後は外猫ではなく家猫にしたいと思ったほどだ。もちろん老齢のドブ猫以外、すべてに避妊・去勢の手術をしてもらった。手術のあと、小さな肉片を見せられたとき、やり場の無い悲しみ、あるいは怒りを感じた。自然に悖る罪だ!
相馬移住の際、できれば全員連れてきたかったが「捕獲」に失敗して相馬に来たのは4匹だけ。でもせっかく連れて来たのに、もともとが野良猫だったからか、引越しのドサクサの中で2匹が逃亡。最後に姉猫と弟猫の二匹が残ったが、その姉猫も昨年死んで、今残っているのは7匹の兄弟猫のなかで初めからなついてきたココアだけ。
いや話を戻そう。というか別の観点から問題を考えてみよう。あるテレビ番組で、昔アメリカでお世話になった人にお礼を伝えて欲しいと頼まれて、サン・フランシスコだったかにレポーターが尋ねていく番組があった。たいていはあたたかく迎えてくれたが、中にとつぜんの取材を激しく拒否するアメリカ人もあった。なるほどプライバシーは守られなくてはならない。しかし所在を知られたくない犯罪者ならいざ知らず、プライバシーという言葉そして概念が独り歩きして、その前に人間の善意や温かさや見知らぬ他人を受け入れるというホスピタリティーそのものが急速にその場所を奪われていく現代社会の動向に対して、 やはり「それは違うんじゃないの」と言わざるをえない。
一切の例外を、あるいはバイキンを排除する超過敏社会は、そしてすべてを無機質な「法律」に訴えて解決しようとするアメリカ流訴訟社会は、結局はその過敏性によって滅びの道に進むのではないか。
この際、言いたいことがいっぱいあるのだが、島尾敏雄の遺稿集からどんどん遠ざかってしまった。実は今日、寺田さんから、鈴木直子の解説の後にあった桐野夏生の「特別寄稿」のコピーが送られてきた。彼女が、遺品の整理でごったがえす名瀬の島尾敏雄の家に行ったときのこと、とりわけ伸三さんとの出合いについて報告しているのだが、コレが実に面白い。推理作家とだけしか知らなかった彼女が、『死の棘』という名作が誕生した島尾家の実情を見事に感じ取って、それを報告している。このことについては、また明日にでも続けよう。
あっ、言い忘れたが、表題の意味は、善意の近隣住民の「精神的苦痛…」という提訴理由の言葉を見て、思わず叫んだ言葉である。私も自慢じゃないが、善良な隣人たちが安酒かっくらって深夜までバカ騒ぎしてるのに耐えかねて、怒鳴り込んだこともあるが、でも相手は動物、つまり人間様の自由意志による騒音、例えば米軍基地のジェット機離着陸時の騒音とはちゃう、いうなればビル風が吹き抜ける時の音のようなもの、だったら布団ひっかぶって寝ちまいなさいよ、と言いたかったのである。