さてその体感だが、ウナムーノはこう説明している。
「現代の心理学者が体感(cenestesia)、または共感覚と呼ぶものがある。これは五官のもつ特殊感覚と異なっているという点において、肉体の総括的感覚そのものを謂う。これは一個の人間が生き、呼吸し、血液が循環し、器官が機能を果たしているのを感じとること、有機体の生命機能より生じた漠然とした感覚であり、ある人たちはそれを神経節組織が受け取るものと想定している。とにかく、一個の人間は自分の肉体を感じ、その生命を感じるのである。この体感の消失または混濁は、重病の結果でもあると同時に原因でもある。そして、この混濁は二重人格とかそれに類した特異なケースに求められなければならぬ。」
零時前にアップしようとして、ウナムーノの文章だけを急いで写したが、足元に、たぶん寝る前の排便から帰ってきたココアが、抱っこしろとうるさく鳴いている。それだけでなく、11時ちょっと前に、やはり寝る前のトイレに連れて行った美子が、今夜はどうしたことか小さい方をなかなか出そうとしない。たいていは音でやったかどうかを判断するのだが、今晩は直前に入った私が流した水の音がまだ続いていて、音が聞き分けられない。
結局その後の洗面を含めると、優に40分近くかかってしまった。こういうとき叱ったりするとかえってすべてがうまく行かないので、怒りやイライラを呑みこまなければならぬ。それでも真夜中に起こされるよりかはましと考えて、ベッドに入れる前にもう一度トイレに連れて行く。今度はできた。
そんなわけで、「体感」どころではなかったのだ。いや、関係なくもないか。いぜん認知症は不思議な病気で、たとえ自分や相手が何者か名指しできなくとも、関係性の被膜みたいなものにくるまれているぶんには、精神的にも安定している、と書いたが、しかし服を着る、スリッパを履く、ドアを閉める、などこちらが適切に声を出したり、手を添えたりしないと、とたんに途方にくれてしまう。
今日も、彼女のむかしの同僚から久しぶりに手紙が来て、その人の息子夫婦や孫、それにその友人その人の写真も同封してあったのだが、その人の名前を読んでやっても、すぐには思い出せないようだ。無駄かも知れないと思いながら手紙を音読してやった。むかし彼女が苦しいときに、しっかり息子さんを育てていけば、将来きっといいことがあるから、と励まされたことのお礼の言葉もあった。読み終わって、やっぱり理解できなかったのかな、とその場を離れたが、少し後に彼女の方を振り返って見たら、その眼に涙が浮かんでいた。個別的認知ではなく、前述の全体性の被膜で事態を「理解」したのだろう。
体感の定義とあながち無縁ではないと言ったわけは、そんなところだ。