呑空註解『注心経』

午後の便で、週刊誌よりちょっと小さめの、40ページにも満たない和綴じの古本が届いた。『町元呑空編輯 冠註傍解 注心經 全』(明治二十年、京都出雲寺文次郎出版)という本である。和綴じの本を所有するのは、これが初めてであるが、表紙は雨水が沁みたのかよれよれで、本文には紙魚が食い散らした跡が散見する。ちなみに、和紙を食い散らした紙魚の跡が、これほどまでにくっきり(?)したものであるのを、これまた初めて見た。
 読めもしない全漢字の本をなぜ手に入れたか。答えは編輯者の名前である。つまり私の俳号でもあり、私の私家本の発行所の名前でもある「呑空」という名前だけのために大枚千円(和書としては高くないか)をはたいて購入したのである。奥付を見ると、この町元呑空なる人物は、石川県平民で、京都府下京区の浄土宗大本山知恩院大学林寓止となっている。つまり浄土宗のお坊さんであろう。これだけしか分からない。
 さて問題は呑空が註解している『注心経』という本のもともとの著者である。囲みの中に大きな字で書かれている部分が原著だろう。冒頭に「大宋國 沙門 道隆蘭渓 述」と書かれている。つまり宋の国の僧 蘭渓道隆が著者というわけである。電子辞書の「マイペディア」には彼についてこう書かれている。
 「蘭渓道隆 1218-1278 鎌倉中期の臨済宗の渡来僧。宋の涪江 [フウコウ](四川省)の人。寛元4年(1246年)来日。北条時頼の帰依を受けて鎌倉に建長寺を開山。日本最初の襌師号大覚禅師を勅謚[チョクシ]され、その門派を大覚派という」。勅謚とは、生前の徳や行ないに基づいて死者に贈られる称号である。
 ついでに宋という国はどういう国かを調べると、こう書かれている。
「宋…後周の節度使 趙匡胤(ちょこういん)が後周のあとを受けて、960年に建国。汴京(べんけい)を都とし、文治主義による君主独裁制を樹立。1127年、金の侵入により江南に移り、都を臨安(杭州)に置いた。それ以前を北宋といい、1279年に9代で元軍に滅ぼされるまでを南宋という。」
 なるほど南宋の人か。中学生、いや小学生の宿題レポートみたいな内容になってきたが、分かるのはそこまで。本文は返り点などが打たれているいわゆる漢文だけれど、残念ながらまだ漢文は読めない。まだ?そう、まだ、である。外国語としての中国語の勉強に頓挫しているいま、せめて「漢文」くらいは読めるようになりたい、と先日も小川環樹・西田太一郎の『漢文入門』(岩波全書、1987年、第1刷)を布表紙へと装丁し直し、読破するぞと気合を入れたはいいが、その後は一向に進展がないからである。
 ところで肝心の「呑空」の由来だが、どこかでもう種明かしをしたような気もするが、ドン・キホーテの頭文字DQのフランス語読みから作った俳号。そして蛇足の蛇足ではあるが、グーグルで検索した限りでは、「呑空」を名乗っているのは、町元呑空以外は富山県射水市の居酒屋、そして栃木県宇都宮市の便秘の専門医である片山病院の異名くらいである。居酒屋に便秘専門医。どちらも人生にとって無くてはならぬものであろう。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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