妻の卒論テーマが T. S. エリオットであることはもちろん知っていた。往復書簡の中でも彼の詩の一節が引用されていた。しかしその一節の深い意味に、今回のうずまきねこさんの指摘で初めて気が付いたのである。いやそれよりも、恥ずかしいことに、彼女の卒論を今までまともには読んだことがなかったのだ。これはぜひ読み直さなければ。しかし卒論原本は家のどこかにあるはずだが見つからない。それで今回はとりあえず、1968年1月(すなわち彼女はすでに卒業して母校の教壇に立っており、そして私たち二人が初めて出会う数ヶ月前)、大学の英文学会が学生の卒論の中から数編を選んで編集した「会報」で読むことにした。彼女の好きな作家の森茉莉、武田百合子、向田邦子などの本と一緒に二階廊下の書棚に埃にまみれてあった。
さて一読しての感想は、大学生の卒論として、かなりのレベルに達していると思われたし、私自身は T. S. エリオットについては全く無知だが、その私の素人考えでも、論の運び方、問題の扱い方に、それなりの一貫性があるし、説得力もあるように思えた。しかし彼女が関心を持ちながらも、卒論では扱い切れなかった問題なりテーマは、母校への就職、そして私との結婚、子育てなどなどの中で、いつか忘れ去られていった。忘れ去られていった?本当にそうか?彼女なりに問題を深めることへの未練や、そしてそれがだんだん遠のいていくことへの無念さが無かったわけではあるまい。
そう考えていくと、忘れかけていた一つの情景が浮かび上がってきた。あれは子供たちが幼稚園に入ったころ、つまり保谷市の西武柳沢駅近くの団地に住んでいたころのある夜だったか、朝方だったか。妻が大型の英和辞典をびりびりに引き裂いて、二階の窓から庭にばら撒いたことを思い出したのである。なぜそうしたのか、今ではもう彼女から聞きだせないが、おそらくは自分も機会があれば研究を続けたかったのに、共稼ぎやら(そのころはインターナショナル・スクールの司書だった)子育てやらでそれがかなわないことへの苛立ち、スペイン語教師に対する英語教師の対抗意識とその挫折感がそんな形で爆発したのではなかったか。
さてそんな彼女の素志を継ぐのは無理としても、せめて辿ってみることはできるのではないか、と思い始めたのである。でも原書を読みこなすのは無理なので、邦訳文献に頼るしかない。ところで彼女が論文を書いていた昭和40年代初めの邦語文献としては、弥生書房の『エリオット選集』や中央公論社の『全集』がすでに出ていたはずだ。だが彼女は前者の別巻しか持っていない。英文での執筆だから邦訳は使わないというのが、当時の英文科生の(今もか?)一つのプライドだったのかも知れない。しかし私としては、その『全集』に頼らざるを得ない。ネットの古書店を探してみたら、一万五千円というのが出ていた。急いで発注したのだが、ちょうど昨日店頭で売れました、すみません、との返事。しかしここまで来たら引き返すわけにはいかない。次に安いのが一万八千円。遅ればせながらの妻へのプレゼントと考えるなら安いもんである。それが昨日届いたのだ。
さあ弔い合戦(?)だ。とはいったものの、どこから攻めていけばいいのか、皆目見当がつかない。それではまず武器の手入れから。古い革のバッグを解体して調達した革で白い布表紙の背中を装丁し、あらかじめ切り取っていた背文字を貼ることにした。これで世界に一つしかない革の背表紙の豪華全集の出来上がり!
でも悲しいのは、全集を手に入れたことも、夫が珍妙な弔い合戦を企てていることにも、妻が取り立てての関心を示してくれないこと。いやそれでもかまわん。拙者にとってこの戦いは、手柄目的でも、戦利品欲しさでもなく、純然たる妻へのオマージュなのだから。(イヨーッ!大統領!カッコいいぞー!との掛け声……あゝ空耳か)
妻に聞いてももはや分からないだろうが、その大判の、確か臙脂色の布表紙の英和辞典は、市川三喜の新英和大辞典(研究社)ではなかったか。あの朝、近所の手前、大急ぎで庭から残骸をかき集め、未練がましくテープで補修をした記憶があるが、その後何回かの引越しの中で、その辭典はどこかに消えてしまった。今回どうしてもそれが欲しくなった。大急ぎでネット古書店を探し回った。あったあった、わずか千円のものがあった。さっそく注文する。
※『峠を越えて』の第二版には、「附録」としてその卒論(英文)と、「あとがきに代えて」として畏友■氏と秋山ユイコさんの二つの私信を加えた。