八月十日(月)小雨時々曇り
毎晩八時半を過ぎると、ベッドと冷蔵庫・ソファのあいだの幅1メートル、長さ2メートルの狭い床の上にゴザを引き、その上に幅75センチ長さ2メートル(くらいの)の変形(センベイ)布団を準備するのだが、やはりこれでは毎夜の疲れが蓄積するようだ。独房の囚人としては我慢が足りないのだが。
それで思い立って、帰宅したおり、ネットで「簡易ベッド」を検索してみた。すると楽天市場(?)でキャンプなどに使う格好の組み立てベッドを見つけた。送料や代引き手数料を入れても5千円。これで少しは疲れがとれるかも知れない。なにせ今のままだと、夜間巡回に来る看護師さんが私の寝ているすれすれのところを遠慮しいしい通らざるをえず(時には尿の袋を提げて)、私だけでなく看護師さんも気疲れするのだから。届くまで何日かかるか調べなかったけれど、これで気分的にも少しは楽になった。
小川国夫は死出の旅へと繋がる最後の入院生活(静岡市の病院)に向かう際、聖書を持って行ったそうだ。私の場合はもちろん死出の旅へと繋がる入院などではないが、やはり聖書を持ってきた。ただし敬虔なキリスト教徒ではないので、持ってきた動機はかなり不純というか曖昧である。簡単に言えば無聊を慰めるための小道具としてである。そのためには小さくてコンパクト、しかも簡単には読み飛ばせないもの、となるとこれしかない。縦12センチ、横9センチほどで、しかもページ数は千ページにもなるラテン語版である。
書名は日本語に訳すと『基督教徒提要』となろうか。内容は三部に分かれていて、第一部は新約聖書、第二部は聖職者必携、そして第三部が「キリストに倣いて(イミタチオ・クリスティ)」となっている。第二部はいわゆる聖務日祷という神父の祈祷書で私には面白くもなんともないが、新約聖書とイミタチオはラテン語を忘れないために時折読もうとは思っていたが、実行できないで来た。それでこの機会に、と思ったのである。(辞書無しでは無理なので、コリンズのさらに小さな羅英・英羅も持ってきた)。誰からもらったものか、記憶には一切残っていない。この本も例の如く脊革で黒い布表紙、そしてマジックテープで開かないようにと装丁し直した。
ラテン語を忘れないため? うーん、それは微妙だ。ともかく60年近くその教えの下で生活してきたキリスト教というものとの距離がいまだに測れないままだからだ。だから小川国夫の『或る聖書』をめぐっての文章を書きながら、それではお前自身の立場は?というのっぴきならぬ問いを突き付けられていることを意識しないではいられなかった。この病室生活の課題がもう一つ見つかったというわけである。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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