八月十九日(水)晴れ
いま一応「晴れ」と書いたのだが、快晴とまではいかない一日となった。ところで昨夜、消灯後、ソファーに座って2005年のフランス映画『約束の旅路』(Va, vis et deviens)を観た。
話の内容はこうだ。1984年、イスラエル政府はスーダン難民キャンプからエチオピア系ユダヤ人をイスラエルへ帰還させるという「モーセ作戦」を敢行する。そのとき一人の母親は、9歳のわが子を生き延びさせるためユダヤ系であると偽って、直前に子供を失った別の母親に少年を託す。少年は人種差別や宗教問題に直面しながらも、愛情豊かな義父母に育てられ、愛する女性とも結ばれるが、実母への思いは募るばかり。やがて医師となって難民キャンプで働く彼は、ある日ついに老母の姿を発見する。
今回の映画の背景もまた宗教である。いつ終息するとも分からぬ泥沼のようなイスラエル・パレスチナ問題。性懲りもなくそれぞれの神をめぐっての真剣で残酷な、しかし見方を変えれば実に滑稽で愚かな争い。しかし映画は『サイレント・ボイス』より遙かに上質に仕上がっている。とりわけ主人公の黒人少年(少年期と青年期を演じる二人とも)の表情が実にいい。前日の映画の少年は演技させられていたが、今回の少年の場合は、映画の作り手は急がず、根気強く、少年のいいところを引き出している感じ。
過酷な風土、厳しい生活が神を必要とさせたことは間違いないが、しかし今度は逆に、その「神」が人々をさらに過酷な境遇へ、さらにのっぴきならぬ世界へ追い込んでゆく。だが映画は少年の養母となったヨエルの、宗教や肌の色の違いを超越する実にヒューマンな姿勢に代表されるように、きわめて冷静かつ客観的に状況を描いていく。しかしこの映画の成功は、結局は人間をとらえる確かな眼差しゆえであろう。開闢以来、不可思議な運命に翻弄され続けてきたイスラエルをいわば内部から描く的確な描写を横糸に、そして現代版「安寿と厨子王」伝説とも言うべき母と子の愛情という普遍的テーマを縦糸に、実に見事なヒューマン・ドキュメントとなっている。
妻との電話の最中、ふと眼をやった先の砂塵の中ににうずくまる母の姿、抱き合う親子をカメラは大きく上方にパンして俯瞰の位置を取る。直前の母親のどよもすような嗚咽の声はかき消され、難民キャンプの幾何学的な模様が人間の悲しさと歴史の非情さを象徴して映画は終わる。
劇中何回か少年が白く輝く月を見上げて恋しい母を想うときの悲しく切ない旋律が、字幕だけの暗い画面をかなりの時間流れるが、今回は最後の最後まで感動の余韻の中でそれに付き合った。
さて川口の娘たちが着くのは、四時十分過ぎなので、十分前あたりに駅前の駐車場に行けば充分間に合うのだが、お盆が過ぎたとはいえ世間は夏休み、それで40分も前に駐車場に入った。さてこの時間をどう過ごそうか。実はだいたいのことは決めていた。駅の売店で何か選挙関係の特集をしている週刊誌でも買って、車の中でゆっくり読むことである。そんな当たり前の時間のつぶし方も、現在の病室生活のなかではなにか新鮮に思われたのである。
しかし売店の本を見ているうち気持ちが変わった。そうだ芥川賞受賞作が載っている「文藝春秋」にしよう。その雑誌も芥川賞も普段はいっさい関心がないが、このエアーポケットのように忽然とできた空白の時間を潰すには適当かも知れない。
改札口で孫たちが電車を降りてくるのを待つ。写真では最近の姿まで知っているとはいえ、実物に会うのは何か月振りだろうか。いや実際いつ来たのが最後だったろう? 下の子はおじいちゃんだよ、と呼びかけてもきょとんとしている。お兄ちゃんの方はさすがに覚えているらしい。休みに息子・娘に連れられてやってくる孫たちを迎える爺さんの図、つまりはこんなもんかえ?
さっそく病院のおばあちゃんを見舞い、そのあと我が家に連れて行く。愛が喜んで出てきた。さあ覚悟せよ、男の子たち、愛の愛情攻撃開始だぞ、だじろがずに受け止めよ。
ところで待つあいだにはさすがに読み切れなかった「終の棲家」を夜、病室で読み続けた。期待通り、つまり予想通り期待外れの作品。馬鹿らしくなって半分に行く前にやめた。残り時間があんまり残っていないおじいちゃんには正直付き合いきれない。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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