九月三日(木)小雨時々曇り
なんだか梅雨に逆戻りしたような天気である。しかし午後、ついに「青銅時代」への原稿を書き上げた。四百字詰め原稿用紙に換算するとわずか26枚程度のものだが、病室生活の合間に書いたのだから偉いもんだ。昔は(はていつが最後だったろう?)こういう時、まっ先に美子に見せ、その反応を楽しみにしたのだが…
現物を見せないで説明するのは難しいが、要するに三層構造になっている。つまり『或る聖書』をめぐっての文章に美子の入院・手術の流れを点綴し(あるいは逆かも)、最後を浮船での講義録といった体裁をとった。もちろん苦肉の策である。さっき読み返して、言わずもがな、の文章を足した。次のものである。
「遠藤周作はほんの駄洒落で雲谷斉を名乗りましたが、私の方は介護に伴う実際のものとして日々その現実を生きてますので、なおさら小川国夫の幸福な生涯を、いささかの妬みをこめて羨ましく思うのであります」。
本当はいささかの妬みと<怒り>、と書きたいのだが、それだとあまりに怨みがましく見えるので加えないことにした。病気とか介護とか、もっと広くは失業とか破産とか、あるいはもっと世界に視点を広げて、飢餓とか戦禍とか、そういったものと無縁の場所で芸術や文学を語ることに何の意味があるか、つまりサルトルだか誰かが言った「飢えた子を前にして文学に何の意味があるか」(でしたっけ?)という大問題に繋がっていくので、そしてそこまで行けばすべてが問題になってしまうので、この辺でやめる。でも病室から見ると、文学でも芸術でも、ふだん見えないものが見えてくることは確かだね。
さて今晩は久しぶりに気にかかっていたノルマから解放されて、昨夜半分まで観たウルグアイ映画『ウィスキー』の続きでも観ようか。こんど初めて知ったのだが、ウルグアイでは写真を撮られるとき、「チーズ」と言わずに「ウィスキー」と言うそうな。中南米全域でそうなのだろうか。おっとその前にスペイン語教室があった。
観ました最後まで『ウィスキー』を。妻に先立たれた男、従業員女性三人だけの小さな靴下工場の経営者が主人公。ブラジルから法事のためにやってくる弟の手前、従業員の一人をにわか妻に仕立てて、三人で保養地などを旅する、といったこれまた奇妙な内容の映画である。もちろん旅行中もその女性とは何もない(何もできない?)のだが、初老の女性の方はなんとなくその気はあったようだ。ともかく最後の夜、弟がそれまでお袋などの世話を一手に引き受けてくれた兄にかなりの金額の入った袋を渡すのだが、兄の方はそれをホテルの中のカジノで賭けて倍以上の儲けを得る。
ブラジルに帰る弟を見送った後、男は何を思ってか別れ際に女にその大金の入った袋を何も言わずに渡した。さて翌朝、以前どおりの味気ない単調な日常が始まるが、女はまだ出勤してこない。男はそれでも淡々と平常の業務に…そこで映画は終わる。なんのヒントもないまま観客は突き放されるわけだが、しかし不思議なことに、それに異議を申し立てようという気は起らない。先日のイラン映画とそこが違う。
もしかすると作り手の方でも、それからどうなるのか一切の考えがないのではと思う。そこまでやられると、観客の方では勝手にその先を想像するしかない。そこが作り手側の狙いらしい。サンダンス映画祭出品の際に若い監督が確かそんなことを言っていたように記憶する。みごとはまったわけだ。
いつも怒ったような、むっつりした老人の演技が実にいい。何を考えているのか、観ている方には予測もつかない。子供はいないのだろうか。亡くなった奥さんとの間はどうだったのだろうか。早朝、アパートを出てまだ暗い道に車を走らせる。古びた店舗のシャッターの錠をかがみこんで開け、作業始めのスウィッチを入れながら真っ暗な作業場を抜けて事務室に入り電灯を点ける……男の内面が気になる、何を考えているのだろう、その瞬間、男の存在が実にリアルにこちらの胸の中に感じられる。地味だが味わい深い佳品である。