『東京画』

恥ずかしいことに小津安二郎を名監督として意識したのは、そんなに古いことではない。しかもそれは外国人経由であった。飛行機の中で隣り合わせた若いフランス人の女の子とたまたま映画の話になって、外国人も知っているだろうからと黒澤の名前を出したとたん、とんでもない、クロサワよりオヅの方がはるかに上よ、フランスで彼の熱狂的なフアンはゴマンといる、と言われたそうだ。言われたのは私ではなく妻である。私なら外国人と英語でそこまで話すことはできない。
 しかしそれはいつのことだったか。飛行機の中となると美子と飛行機に乗ったのは今まで四回しかないはず。一度は1980年夏、家族四人でスペインに行ったとき。二度目は熊本でのスペイン語学会に美子を連れて行ったとき。その次は頴美の実家に挨拶のため中国に行ったとき。そして最後はそれから2年後、バッパさん、頴美と四人で北海道に行ったとき。となると可能性はスペイン行きか熊本行き、たぶん後者だろう。(▲1990年春、バリ島への夢旅行のときにも成田-シンガポール間を乗ったことを忘れていたが、その時でないことは確かだ)。 それがいつかなど、どちらでもいいことだが、こんなときでもないと過去のことを思い出さないのでちょっと思い返してみただけ。さてその小津のことだが、今日の午前中、残り少なくなったVHSの中に『東京画』という不思議なタイトルを見つけたのである。最初、一時期マスコミを賑わしたアラーキーとかいう変な写真家の作ったか出た映画のことかな、と思ったのだが、いざ映してみると、なんとこれがヴィム・ヴェンダースの小津安二郎への熱烈なオマージュだったのだ。旅日記のかたちで東京の街を映しながら、小津映画のかなり長いシーンのコピーや、笠智衆や撮影監督の原田雄春へのインタビューなどを点綴させたなかなかいいドキュメンタリーだった。
 原田雄春が小津のことを語りながら(あの有名なローアングルからの撮影技法についてなど)思わず泣き出すあたり、ついもらい泣き。そして最後、『東京物語』のラスト・シークエンス、つまり葬式を終えて東京に帰っていく原節子の乗った汽車を、義妹の香川京子が高台の小学校の教室から見送る場面、そして近所のお上さんに「寂しくなりますねー」と縁側の外から声をかけられて、暗い部屋の中からそれに応じる笠智衆の背中を丸めた姿を見ているうち、限りなく愛おしくそして果敢ない時の流れの実質に触れた気がして目頭が熱くなった。いや恥ずかしいけど、しばらく涙が止まらなかった。
 それにしても、私より6歳も若いこのドイツ人監督、なかなかやります。『東京画』が1985年、その2年後に『ベルリン・天使の詩』、そして1995年にペソアへのオマージュ、あの『リスボン物語』を撮ったのである。わがフィルム・ライブラリーには、1975年の『さすらい』もあるようだ。「ウィキペディア」によると、写真家でもある夫人のドナータ・ヴェンダースと共に、京都から尾道・鞆の浦・直島へと旅の道中の、日本の古都や瀬戸内の原風景を収めた写真展もやったそうである。小津巡礼のつもりであろう。その夫人は五番目の配偶者らしいが、生涯独身を通した小津安二郎や原節子にあやかって、現夫人が最後の連れ合いであらんことを、などと余計な心配までした。それだけ親近感を持ったということである。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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