やり残していること、つまりそれを片付けなければ死んでも死に切れないということが、ずいぶんと溜まってきた。もちろんそのうちのいくつかは、おそらく実現不可能で、あきらめるしかないものである(あろう)。たぶん実現不可能であろうと思っていることの一つは、旧満州熱河省の灤平を再訪することである。実は去年の前半くらいまでは、美子を連れて、ぜひ行ってみたいと思っていた。ちょうどそのころまで、北京大学でスペイン語を教えていた友人のOさんも通訳を買って出てくれてもいた。
しかし美子を連れての長旅にだんだん自信が無くなってきた。4歳から6歳まで約二年を過ごした地、そして何よりも亡き父の終焉の地である灤平(ランペイ)再訪は長年の夢だったが、無理をしなくてもいいかな、それよりも想像力を働かせて、実際の再訪よりも意味のあることをしたい、と思うようになってきた。
つまり父は旧満州にどのような夢を持って渡ったのか、その夢が過酷な現実にしだいに打ち砕かれてゆく過程で、どのようなことを思っていたのか。そして34歳の若さで病の床に伏したときの無念さはいかばかりであったのか、そんなことを追体験したい、と思い始めたのだ。もしそれができるなら、実際に彼の地を訪ねることよりも数段意味があるのではないか、つまり亡き父のための供養になるのでは、と思い始めたのである。
漠然とではあるが、そのためのヒントになるかも知れない、と目星を付けているものがある。中島敦の『光と風と夢』(1942年)である。いずれしっかり読まなければならないが、ただごくぼんやりと、この小説が、戦争という大きな波に翻弄され、いずれ自分がその中に埋没してゆくであろうとの暗い予感の中で、しかも必死に自分を立て直そうとした作品であると理解している。
もちろん小説は、若くして肺を病み、転地のため旅を重ね、最後はサモアのウボル島で死んだイギリスの小説家ロバート・ルイス・スティーブンソンの日記の形をとっているのだが、パラオ南洋庁書記として赴任しながら、気管支喘息の病状が悪化して帰国後間もなく死んだ中島敦自身の投影であることは間違いない。
南洋と旧満州、と舞台は大きく異なるが、生年、教員から役人への転身、病、没年などわずか1年のずれ以外ぴたりと重なっており(中島敦 1909-1942年、父 1910-1943年)、前から気になる作家であった。ちなみに娘の名前は彼の名前から取ったものである。
先ほど、筑摩書房『中島敦全集』全3巻を廊下の書棚から持ってきた。うーん、そろそろ少し気合い入れて読みましょうか。ところで父の遺品は、親族宛ての数通の手紙と手帳式の日記帳、そしてケース入りのバイオリンだけか。その手帳も病を得てからのものなのか、巻末の住所録と義弟(つまり私の叔父)の詩稿だけしか書かれていないのが残念でならない。
なんだかこのごろ、できもしない構想をいくつもぶち上げているようで心苦しいが、まっそのうちの一つでも実現できれば、との太い了見からであるので、どうか長ーい目で見てください。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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