「三年前の夏のことです。」
Todo empezó un día de varano como otro cualquiera.
これは芥川龍之介の『河童』の冒頭、いやもっと正確に言うと、「序」が終わって、精神病患者第二十三号が語った話の書き出しの文章である。そしてスペイン語は、そのスペイン語訳(アルファ社、1985年)である。
毎週木曜日、夜七時から原町文化センターでやっているスペイン語教室での今夜の教材である。一通り文法を終えた聴講者たちの教材として、市販のスペイン語読本をやるより、聴講者の興味や好みに合わせていろんな教材を用意するシステムにして九番目の教材である。少し難しくても日本の童話や小説のスペイン語訳を読んでみたいと言われて、それでは芥川の『河童』のスペイン語訳を持っているから、次週はそれをやろうと約束した。ところが恥ずかしいことに『河童』は読んだことがなかったのである。
書き出しの三つの段落と、その下に日本語原文をB5の紙一枚にコピーしたのだが、実際に読んでみて、ちょっと難しい教材だったかな、と思ったが、いまさら約束を撤回するわけにもいかず、そのまま教室でみんなと読んでみた。スペイン語訳の訳者はエバ・イリバルネ・ディートリッヒとなっているが、おそらく英訳からの重訳ではなかろうか。しかしそれにしてはかなりいい訳になっているのでは、と感心した。
たとえば冒頭の短い文章だが、不思議な世界への導入部として、みごとな訳ではないか。原文を無視して、スペイン語をそのまま日本語に訳すとこうなる。「べつだん他の日と変らない或る夏の日、すべてはその日に始まった」。つまり原文にはない「他の日と変らない」(como otro cualquiera)を入れることによって、むしろ異様なできごとが起こりそうな予感を抱かせるからだ。
私はスティーブン・キングの小説やその映画化作品の熱烈なファンではないが、たとえば舞台となるアメリカの田舎の、なんの変哲もない町並みの描写が、むしろ逆説的に異常な出来事や事件の前触れとして実に効果的に使われているのと同じである。教室での教材としては、やはり難し過ぎるので、次回の為には別な教材を探すつもりだが、『河童』のスペイン語訳は翻訳というものについていろいろ勉強になりそうだ。
それはともかく、『河童』の登場人物の一人の名前が注意を引いた。河童の作曲家のクラバックという名前である。トックとかバッグとかチャックなどといかにも河童らしい(?)命名の中でクラバックなどと少々偉そうな名前だから注意を引いたわけではない。どこかで聞いたような名前だからだ。どこで見たのだろう。こういうときの定石は、ヤフーなどで検索してみることだ。いろいろ検索してみた。芥川のこの『河童』への言及は目に付くが、どうも人の名前として出ていない。ただインドネシアなどでベンベンと呼ばれる樹木の和名(?)としてクラバックというのがあったが。
そこで思い出した、真鍋呉夫さんの『月と四十九ひきめのカエル』という童話の主人公がクラバックだったことを。こちらはカエルの物語だが、しかし河童のクラバックと同じく音楽家である。真鍋さんは明らかに芥川の『河童』のクラバックを意識してカエルのクラバックを造形したのではないか。
じつは真鍋さんの童話もまだ読んでいないのだ。そのうちしっかり読み通した上で、真鍋さんに命名の由来を聞いてみることにしよう。