旧友たちとの嬉しい再会

四時ごろ到着予定ということだったが、三時ちょっと過ぎにI先生から、今ホテルに着いた、という電話がある。会う時間がそれだけ長くなるわけだから、こちらとしては大喜び。美子を連れてさっそく駆けつけた。久しぶりに会う旧友たちと、挨拶もそこそこ、すぐに昔のままの会話が始まった。S先生とI先生は、私たちが原町に引っ越してからすぐの2003年にも、やはりS先生の車で来たことがあるが、SG先生は今回が初めての来訪である。
 美子を助手席に、三人の客人を後部座席に乗せて、いざ出発。先日ここにも書いたとおり、まずは野馬原に。祭りが去って、今はただ炎熱の太陽の下でじっと耐えているだけの原っぱだが、本祭り当日の甲冑競馬や神旗争奪戦の模様、そして勝者の騎馬武者が褒美を受け取りに勇ましく登っていく羊腸の坂などを説明して、少しでも祭りの賑わいと興奮を伝えようと頑張った。
 その後、今はあまり利用者がいない馬事公苑(めずらしいことに今日は一騎走っていたが)に向かい、岡の中腹から市街地、その先に霞んで見える海(いや海は今日は霞の中)と火力発電所などを一望のもとに眺めてもらった。それから今度は、海まで車を走らせる。子供たちの夏休みが終わって、さすがに浜辺には海水浴の客はいなかったが、サーファーが数人、波間に浮かんで見えた。ここでインスタント遊覧は終了。
 わが家に向かう途中、今夜の宴に飲むビールはそれぞれ好みが違うと言うので、途中スーパーに寄って購入(三人が自分たちだけで行くというので、私たち夫婦は駐車場でしばし待機)。かくしてちょうど予定通りの五時にわが家に到着。
 頴美が用意した水餃子を中心とした料理を皆さん美味しい美味しいと褒めてくれて、ホストとしてちょっと誇らしい。女性の客人のときはすぐ打ち解けるのに、大きな体の三人のおじさんたちに、さすがに気圧されたのか、愛は声もなくおとなしい。
 三人のうちの二人は、私の最後の職場でまだ働いているので、私の知っている先生たちの動静がいろいろ聞けて面白かった。私の中ではすでに過去のものとして記憶から徐々に消えかかっていたことが、いまだ生きた現実であり続けていることが不思議に思えた。今は亡き事務職員のNさんも交えて共に過ごした時代が、ただただ懐かしかった。いろんなことがあったが、心許せるいい同僚たちと共有した時間が実に貴重なものとして蘇った。
 宴のあと、二階の老夫婦の居間で、ウーロン割り芋焼酎(これもお土産)を飲みながら楽しいお喋りを続けた後、九時ちょっと前、酔い覚ましをしながら歩いてホテルまで帰るという三人を玄関前で見送った。月明かりもない暗い夜道を去っていく三人、こんな遠くまで会いに来てくれた友情に感謝、そして乾杯!

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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