昨日、とうとう井上ひさしの『一週間』が手に入った。世評が高いためか、アマゾンでも一向に安くなりそうもなかったのでとうとう注文したのだ。それでも新本なみの初版本が定価より二百円安かった。
読み始めて先ず圧倒的なリアリティーに度肝を抜かれた。小川国夫さんの場合も、遺作『弱い神』が周到に構想された傑作であることが読み始めてから判明したが、この『一週間』も著者がいわば自分の文学的営為の総決算として渾身の力をこめた書いた畢生の大作のようである。「ようである」と断定を避けたのは、実はまだ初めの部分しか読んでいないからだが、しかしそう断定しても期待が裏切られるはずはないと確信できるほどの書き出しなのだ。劇団こまつ座の経営不振を回避するため、死を前にしても、この大作の最終稿に専念できなかったそうだが、そう考えると著者の無念が改めて思いやられる。
小説の主人公小松修吉はシベリア捕虜収容所の囚人だが、いささか変わった経歴を持っている。つまり山形の貧農の生まれながら、篤志家の支援で東京外語でロシア語を、そして河上肇の著作に影響されて京都帝大で経済学を学び、その後共産党員として活動中に逮捕され、獄中で転向を強いられて満州に渡る。そして満州映画協会のハルビン支社に勤務中、ソ連軍に捕らえられた男である。
さてこの小松修吉に、話が始まって終わるまでの一週間にどのような運命が待ち構えているのか、おおよその筋立ては紹介文や書評などで分かってはいる。しかしそれで読み進めるための興味が殺がれるかと言えば、何度でも繰り返すが、この小説のリアリティー構築のためになされた用意周到な準備、そしてストーリー展開のために巧妙に張りめぐらされた仕掛けの予感が書き出しからして明らかで、作品そのものへの興味や関心は一向に減じないのだ。それは犯人がすでに分かってはいても、事件の顛末を語るその話り口の巧みさで、読書意欲にいささかのダメージも受けない良質の推理小説の場合に似ている。
たとえば一つの例を出そう。小松が赤軍政治部将校チチコフ少尉に、自分の新しい上司となるべき「日本新聞」編集長イワン・イワンーノヴィチ・コワレンコに引き合わされる場面はこう書かれている。
「チチコフ少尉の後について廊下を正面の出入り口に向って緊張して歩きながら、わたしは同時に、幽かにではあるが笑ってもいた。というのは、東京外語にイワン・イワーノヴィチ・ネフスキーという頑固一徹な老講師がいて、教え子たちから、イワン・イワーンコッチャナイゼヴィチ・イクライッテモダメネフスキーという馬鹿に長い綽名を奉られていたのを、ふっと思い出していたからである」
もちろんこのエピソードというか言葉遊びは、井上ひさしのオリジナルかも知れないが、しかし私は、ロシア人講師の名前をもじって笑い話にしたことのある実際の経験者の話を参考にしたに違いないとなぜか信じている。たとえば井上ひさし夫人の実姉米原万里から外語時代の思い出を聞いたのではないか、さらには彼女の「シベリヤ大紀行」の体験を聞いて小説の細部を想像したのでは、と思うからである。小説としては少し異例だが、巻末にさまざまな参考文献が載っているが、井上氏はそれらを充分咀嚼した上でこの大作を構想したに違いない。小説にとって命綱であるリアリティー確保のための半端ではない努力がこの小説をしっかり支えているのである。
そして主人公は、著者にとっては岳父である日本共産党員で衆議院議員の米原昶(いたる)や著者五歳のときに文学への夢破れて病死した山形の貧農出身の実父を想いながら造形したのではないか。そう考えると、大江健三郎がこの作品を、同じく父を想いながら書いた自著『水死』と重ねて読んだこともうなずける。ともあれ、久しぶりにワクワクするような小説に出会った。