昨日とは打って変わって、朝からどんより曇った一日となった。さすがに気温はずっと低いのだが、気分的にも最近にないぐらいに落ち込んでいる。こんなときもあるさ、と思ってはみるものの、いっかな晴れる気配がない。長い炎暑の疲れが出てきたのだろうか。情けないことだが、どうしようもない。鬱(うつ)に苦しんでいる人に、頑張れ!と気合をかけても意味がないのもなんとなく分かるような気がしてくる。
本を読む気にもならないし、テレビを見る気にもならない。美子と馬鹿話でもできれば、少しは気が晴れるのにな、などと思いながら、だいぶ溜まった録画映画のリストを見てみる。アガサ・クリスティー原作の映画特集も特に見たい気が起こらない。しかしそのうち録画したことさえ忘れていた『霧の中の風景』という題の映画が気になり、それを夕食前に見始め、夕食後も続きを何となく見ることになった。
なにやらギリシャ映画らしい。11歳の姉と5歳の弟の二人が、まだ見ぬ父を訪ねてドイツまで旅をするという筋だが、途中姉はトラックの運転手に暴行されるなど、確かに映像は美しいのだが、内容は実に暗く深刻である。ただ見ているうち、あれっこの手法はどこかで見たぞ、と思うシークエンスがいくつも出てきた。たとえば古びたバスで旅をする旅芸人たちの集団、なまり空の下の荒れた海の風景、そして何の脈絡もなく黄色いレインコートを着て自転車で行く三、四人の男たち。
そうだ、これは先日見たばかりの『永遠と一日』のアンゲロプロス監督の作品だ! 見終わったあと、急いでネットで調べてみた。予想はみごと的中。といってあまり自慢にもならぬか。つまりそれと知らずに衛星第二のアンゲロプロス作品特集を録画しておいたのであろう。1988年ギリシャ・フランス合作映画で、ヴェネチア映画祭で銀獅子賞最優秀監督賞を受賞したらしい。
『永遠と一日』の主人公が詩人だったので、暗記したくなるような詩句が効果的に使われていたが、この映画でも詩のようなセリフが繰り返される場面が何度もあった。たぶん日常会話でもふつうに使われるような表現なんだろうが、それが繰り返されると、言葉自体が立ち上がってくるような効果がある。エンドロールを注意して見ていたら、翻訳者・池澤夏樹と出ていた。そういえば『永遠と一日』も彼だった。
実は数日前、アマゾンから彼の『マシアス・ギリの失脚』という長編小説と、芥川賞受賞作品『スティル・ライフ』が届いていたのである。読まなければならない本が山積しているのに、なぜ今さら、と自分でもはっきり思い出せないのだが、たぶん彼が私と同じく帯広市に生まれたこと、彼の父親が福永武彦であることなど、が興味を引いたのであろう。ただ『マシアス・ギリの失脚』は、新聞の書評を見たときから読んでみたい小説であったことは間違いない。
しかしその彼がなぜアンゲロプロス作品の字幕を担当するようになったのか。ネットで調べてすぐその理由が分かった。ウィキペディアの説明を要約すればこうなる。つまりロレンス・ダレルの弟のナチュラリストであるジェラルド・ダレルが少年時代を回顧しギリシアを舞台にした『虫とけものと家族たち』などを1974年に翻訳しことがきっかけで、1975年にギリシアに夫婦で移住、3年間同地で過ごす。これが契機でアンゲロプロスの作品の字幕を担当するようになったそうだ。
とここまで書いてきて、朝からの暗雲にすこし晴れ間が見えてきたような気がする。『霧の中の風景』の登場人物の一人が、こんな場合、つまりどこにも突破口が見えないようなときに効く言葉をつぶやいていたと思うが、ちょっと思い出せない。いいやそんなこと。ともかく気落ちしないで、ぼちぼち行くことにしよう。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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