先日話した締め切りのある仕事とは、もちろんオルテガの『大衆の反逆』翻訳のことであった。白状すれば、とうとう昨日までとりかかれないで来たのである。しかしご承知のように(誰が?)、パソコンの故障というトラブルにまきこまれてしまった。ところが皮肉なことに、それで踏ん切りがついたのか、俄然やる気が起きてきたのである。つまり窮鼠猫を噛むというやつである。
いちど歯車が回転し始めると今まで難渋していたのがウソのように、訳稿に手を入れることが愉しくなってきた。まるで呪縛が解かれたようだ。今までは原意から離れることをあまりに恐れていたのかも知れない。要するに、私がふだん、たとえばこのモノディアロゴスのように、いちど書いた文章でも、あとから何度でも自由に、もっと真意が伝わるように、自由に修正していけばいいのだ、と気付いたのである。何十年も翻訳をしてきながら、そんな境地に立ったことはなかったような気がする。
つまり今までは、原文を横目で見ながら、そこからあまり離れないようにとばかり考えてきたのだが、原文を見ないで、ともかくそこにある日本語だけで内容が良く理解できるかどうか、が重要なのだ、と。要するに原文を知らないふつうの読者の目で訳稿を見直したのである。
さあこれで行けるぞ、と張り切ったのだが、好事、魔多し。夕方になって、今度は代替のパソコンの調子が悪くなってしまったのである。XにSOSを出したが、なにせ夜分のこと、明日までは例のACERで急場を凌ぐしかない。
ともかく明日にでも修理に出したパソコンから、翻訳データのせめて一部でも取り出してもらわなくては仕事にならないのである。さてどうなるか。
今日はさんざんな目に遭ったが、いいこともあった(とでも言わなければ救われない)。それはばっぱさんのところに行く前に、例の藤娘のケースにするアクリル板を買いに行ったときのことである。ところがそれが意外にも高いのだ。下手をすると人形と同じくらい(と言ってしまえば人形の値段がバレるか)になる。それで考えを変えて、百円ショップになにか代わりになるものはないか探しに行った。百円ならぬ三百四十円の人形ケースがあった。しかし残念ながらあまりに小さすぎた。
それなら、と昨夏美子が入院した病院の斜め向かいの雑貨屋に行ってみた。もちろん無かったが、店番のお婆さんから素晴らしい情報を手に入れた。つまり旭公園近くの手芸屋 [ゴトウ手芸店] に人形ケースがあるかも知れない、という情報。行ってみましたよ。ありました、ありました、組み立て式のアクリル板の人形ケースが。もちろん姉と愛の分二個を買い(二つで千五百三十五円)、家に帰ってから、百円ショップで買った金紙を人形の背後の板に貼り付け、人形を入れてみた。なんと見映えのいいこと。まるで「人形の…」の高級品に見えましたぞなもし。今日はこの収穫で了としよう(なんとささやかな喜び)。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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