『大衆の反逆』の推敲作業のことだが、初めのころのスピードが少し落ちてきた。理由は、「フランス人のためのプロローグ」のときは、編集者の「直し」がほとんどなかったから、自分の仕事だという気持ちがあって、作業自体が楽しかったのであるが、「本文」に入ると、とたんに「直し」が多くなって、だんだん作業が辛くなってきたことによる。編集者の気分が乗ってきたのか、まさに編集者の呼吸とリズムで文章が直されていて(もちろん原文を理解しての直しでなく、あくまで日本語を読みやすくしようとの直しであるが)、それを気にしだすと、私の呼吸とリズムが出せなくなってくる。息苦しくなってきたのはそのためである。
編集者とて、その目指すところはいい訳文を作ることなのだから、ここは当面、彼の「直し」は見ないで、ともかく自分の呼吸とリズムを大切にすることにした。しかしその作業を続ける前に、ここでひとつ気分転換も必要であろうと考えた。つまり既訳がある部分はとうぶんお預けにして、まったくの新訳の部分、ということは巻末の「イギリス人のためのエピローグ」のことだが、それをまず見直すことにしたのである。これは本来のエピローグの短い文章と、いわば独立した「平和主義について」という二つの文章から成っている。
そしてうかつにも推敲を始めてから気がついたのだが、一応は訳し終えてはいるが、よく理解しないままなのではないか、と思われてきたのである。たとえばオルテガは、こんなことを書いていた。
「以上の理由から、少しばかり時期尚早であることも承知で、これに続く「平和主義について…」と題する文章の中で、スペインについて話す(しかもスペインについて話しているなどとは思えないような形で――なぜといって警戒心の強いイギリスの読者には、それしか我慢できなかったであろうから――)きっかけにしようという気持になったのである。読者はもしも善意の方なら、この文章の名宛人がだれであったかを忘れないであろう。イギリス人に向けられたこれらの文章は、彼らの習慣になんとか合わせようとの努力が見てとれる。つまりあらゆる《派手やかさ》を諦め、用心深さと遠まわしの表現で組み立てられた、言うなればディケンズの小説 [『ピクウィック・クラブ遺文録』、一八三七年] の主人公ピクウィックばりの [召使サム・ウェラーとの弥次喜多的旅日記] かなり滑稽なスタイルで書かれているわけだ。」
つまりディケンズの最初の長編小説のような滑稽なスタイルで綴ったエピローグというのだが、そんな印象はまったく残っていないのである。ということは、初めに訳したとき、その平和主義についての難しい議論の方にばかり気をとられ、オルテガの隠れた意図や滑稽さをつかみ取れなかったということだ。
よしこれまででも大幅な遅れだ。その責めの九十パーセントは私自身の気乗りの無さ(あとの十パーセントは編集者の健康状態とでもしておこうか)だが、ここまで来たのなら、百パーセント(は無理だが)自信ができるまで、時間がかかろうと徹底的に推敲することにしよう。
と同時に、半世紀近くやってきたスペイン語の実力が、寄る年波のせいもあるが、実は初めからかなりあやふやなものであったことを改めて反省しているのだ。そんな思いに捕らえられたのも、今日ふと手に取ったエウヘニオ・ドールスの『新・語録(El Nuevo Glosario)』を読んでいるときだった。彼が駆使したグロサ(glosa)は(一応「注記」と訳すしかないが)、ウナムーノのモノディアロゴと一脈通ずる短いエッセイで、普通名詞のグロサというより、独自のスタイルを持った新しい文章表現の形式ではないか、と思われる。いや、言いたかったのは、私自身の文章表現に多くの示唆を与えてくれそうな内容であることは推測できるのだが、長い間スペイン語を読むことから遠ざかっていたため、今ではそうとう努力しなければ、スペイン語の文章の中に入っていけないことが、悔しいけど思い知らされたということだ。
それはまた、ドールスの二つの名著、『プラド美術館の三時間』と『バロック論』を見事に訳された恩師・神吉敬三先生の遺徳を改めて偲ぶことともなった。そう、このまま中途半端のまま終わりたくない。ここは一つ初心に返って、ゆっくりでもいいから、いやそれしかないから、途中で放り出したままのスペイン思想の勉強を再開しよう。もちろん健康に注意しながら、そしてよく美子の面倒をみながら。