午後一時半、おばあちゃんのところに一緒に行くという頴美と愛も連れて、羽下さんの陶芸展に行った。時間帯だからそうなのか、先客は一人いただけで、帰りのときも新たに入ってくるふうでもなかった。初日と二日目はそうでなかったと願いたいが、来年はもう少し前から宣伝役を買って出よう。
作品を見て回る前に、この数日書いてきた神吉先生についての文章のコピー、先生の『バルセローナ』が2冊あったのでそのうちの一冊、そして『モノディアロゴスⅢ』を献呈した。彼の創作に神吉先生のスペイン美術論が何かのヒントになれば、と願ってのささやかやお祝いである。
さて作品だが、今年の受賞作は思ったより小さく、それでも30×50×15センチはあったろうか、しかし予想にたがわず迫力があった。全体がモスグリーンの色調が支配した、神話的といったらいいのだろうか、なぜか懐かしい模様が描かれている。懐かしいと言うのは、すでにどこかで、現実にか夢の中でか分らないが見たことがあるといった、一種の既視感に捉えられるからだろう。迫力と言ったが、それは決して観る者をを圧倒するという意味での迫力ではなく、内部から吹き上がってくる創造の息吹の迫力である。せめて写真でもあれば少しは伝わるのだが残念である。
作品の側に、分厚く豪華な大型の本があり、そこに羽下さんの作品の写真と、スペイン人らしい名前の人のコメントがあった。ガルシアなんとかという名前だったと思うが、もしそうだとしたら、以前、別の受賞作品に対するコメントを書いたプラド美術館専属美術評論家ペドロ・フランシスコ・ガルシア氏のコメントだったろうか。いつか機会を見つけて確かめるつもりだ。
しかし図版も無しに、しかも素人口調でいくら羽下作品の魅力を伝えようとしてもむりなので、ここでは2005年の作品「空想の碑」という作品についてのパトリック・オベールという人の言葉を引用しよう。作品そのものは別だが、今回の作品にも通じる評なので少しは役立つだろう。
「人間とは何者か、世界とは何か、戦争とは何か。創造する意味とは、芸術の真の在り方とはどのようなものか。思考の螺旋階段は永遠に続いてゆく。人間は様々な形式を作りだし、それらを整理しようとするが、それはほんの表面を撫でているに過ぎない。われわれの内なる世界、精神世界はもっと深遠であり、それらの形態は把握したり、整理したりできるようなものではないだろう。圧倒的な不規則であるが、何かしらの秩序が見え隠れし、今、確実に分かるのは非常に膨大なボリュームであること。そんなわれわれの心の中、精神世界のイメージを羽下昌方氏は作っているのである。谷間のようにへこんでいる部分は、有機的な形態でびっしりと埋め尽くされている。意図と偶然性が混在したような形態は、操作と非操作が混在する心の世界を表現するのに相応しいものであろう。一見して言葉にならないものであるが、どこかに既視感を覚えるのは、人間の原風景のようなものをこの作品が捉えているからかもしれない。」
いかにも翻訳調の文章でかえって分かりにくくなったかも知れない。はからずも既視感(デジャービュ)という言葉は同じだったが、私自身がもっと作品鑑賞の力を養って、適切な言葉でコメントできるようになりたいものだが、はたしてそんな日は来るだろうか。
本当は別のことを書くつもりで机に向かったのだが、今日の個展についてのご報告もしなければ、と急遽予定を変えた。用意していたものは明日書くことにする。