いやーまいった。アーサー・ビナードの『日々の非常口』を三分の二ほど読み進んだけれど、一編一編が実に小気味いい文章なのだ。そう、一言でいうなら知性を感じさせるエッセイ。エスプリの効いた、という言葉がぴったりの、外連味(けれんみ)のない文章である。エスプリもケレンミも私としてはめったに使わない言葉だが、それほど新鮮な感動があったということである。
われわれ日本人が気づかない日本語の魅力を、外国人特有の触覚で拾い上げてくれることにも感心したが、それ以上に、物事の真実を切り取ってみせるその巧みの技に脱帽した。そんなに褒め上げると、後が困るかも知れないが(?)、今回は手放しで褒めるしかない。それで、ついでながら、彼ができればその人に成り代わりたいとまで私淑しているという詩人・菅原克己の全詩集の古本をとうとう注文することにした。
特に感心もし我が意を得たりと思ったのは、随所に見られる彼の一貫した反戦思想である。たとえばこんな指摘がさりげなくなされる。
「劣化ウランとは、天然ウランの濃縮工程から出る放射性廃棄物だ。本来、処分するのにコストがかかるが、砲弾に作り替えて他国で撃ってしまえば、一石二鳥の儲けもの。戦争とゴミ処理を同時にできる。
そんな兵器を、今回のイラク戦争で米軍はさらに多く使用した。国防総省からの発表はないが、何千トンという単位か。子どもたちの悪性腫瘍の激増を無視し続けながらだ。劣化ウランの半減期は、四十五億年だという。」(「剣を鋤に、銃を薪に」)
何の批判も加えずに人工衛星を礼賛するわが国の報道のありかたに疑問を持っている人には嬉しい、こんな辛口のコメントもある。
「宇宙ゴミを指す<スペース・デブリ>という単語には苦笑させられる。<破片>とか<屑>を意味する debris からきていることは重々分っているが、つい一瞬<宇宙太り>のイメージがわく。現在、壊れた人工衛星やロケットの残骸など、ざっと七千個もの粗大ゴミが地球を回っている。予算をむさぼり、肥大したNASAの姿を映し出す、空の鏡でもある<デブリ>だ。(「寿司シャトル」)
今まで本を読んで、その著者と友だちになりたい、などと思ったことなどないが、ビナード氏となら友だちになりたいな、と思った。でも略歴を見ると1967年生まれとある。へー、私の子供たちより一歳だけ上なんだ。それにしては…いやいやこちらがそれだけ歳をとっているだけの話か。
話はがらりと変わるが、今日、羽下氏から大判のコピーが届いた。先日の陶芸展で、本年度受賞作へのスペイン人審査員のコメントのコピーをいただけないか、と依頼したところさっそく応えてくださったのだ。先日はコメントの書き手はペドロ・フランシスコ・ガルシア氏のものではないか、と書いたが、実際は審査委員長のアルフォンソ・ゴンサレス氏のものだった。来年の展覧会前にご紹介するつもりだったが、忘れるといけないので、少し長いがここでご披露することにしよう。
「日本の陶芸家・羽下昌方の作品は、出展された先々で賞賛されてきた。フランスやベトナム等の展覧会でも成功を収めている。そして、スペインでも彼の作品を直接目にできる日が来たことは、非常に喜ばしい。彼が多くの美術関係者、美術愛好家に認められているのは、その独創性、陶芸への新しい取り組み方、最終的な表現へと展開する絵画的芸術性によるものだ。
その独創性は、人間という存在と、彼が扱う材料の性質の両方を理解しているところから来るものであり、その知識からまた新しいアイデアが生まれ、見事な作品として完成されるのだ。
彼が作品として生み出す形に、鑑賞者は無関心ではいられない。陶器に与えることができる実用的な機能を超えて、独自の調和と美を与えることにこの創作者が成功しているからだ。そして、その装飾についての重要なことは、全てのモティーフを囲んでいる線の繊細さ、ソフトなハーフトーンが常に陶器の素材と完璧な関係を保って使用されていることだ。」(『アート・メゾン・インターナショナル2010年』367ぺージ)。