午後の便で分厚い「ゆうメール」が届いた。すぐ菅原克己の詩集だと分った。A5判515ページ、西田書店発行、2004年初版第3刷の、表紙も箱も実に簡素な装丁の詩集である。アマゾンで見つかった二つの詩集のどれを買おうか、迷った末、全詩集の方を選んで正解だった。つまりもう一つの『陽気な引越し』は、この全詩集に収録されていることが分かったからだ。もっとも、菅原克己は1988年に亡くなった詩人なのだから、死後に編まれた全詩集にすべての詩が含まれるのは当然なのだが。
さてふつうの本好きなら、このままの姿で読み始めるであろうが、本当の本好き(?)の私は、我が家に来てくれたこの賓客に最上級のもてなしをする。つまり、気に入った大事な本に対して行なう歓迎の儀式を始めるのである。
まず外箱を解体して、童話風のカットと菅原克己全詩集という文字の入った部分をカッターで切り取る。他の本の箱を解体して作った厚紙(なぜなら今度の詩集の箱は柔らか過ぎるので)を表と裏の表紙に糊で貼り付ける。そして背中にちょうどいい大きさに裁断した革を貼り、表紙の他の部分に茶色のビロード地を貼る。最後に表紙の真ん中と背中の部分に、先ほど切り取っておいた題名とカットを貼り付ける。これで豪華な、世界に一つしかない『菅原克己全詩集』の完成である。かかった時間は約30分。
さていよいよ読み始めである。本当は白紙の状態で1ページ目から順次ゆっくり読むべきではあるが、なにせ時間が限られている身なので(何のこと?)、邪道ではあるが巻末の年譜から読み始める。そこに思いがけなく詩人のポートレートがあることに気づく。黒縁のめがねをかけて笑っているなかなかいい写真である。一目見た瞬間、あゝこの人は信頼できる誠実な人だと分かる顔をしている。
1911年、宮城県亘理郡亘理町に生まれる。父は宮城師範を出て、小学校や女学校の校長を務めた謹厳な教育者である。亘理といえば岩沼の手前、すぐ近くの町だ。そして私の父より一歳若いだけ。
1923年、その父が校長室で急死。家族は東京に移り住む。1927年、彼自身も教師を目指して豊島師範学校(後に東京学芸大学に統合される四つの師範学校の一つ)に入学。その頃、家の近くにあった「練馬神の教会」で日曜学校の手伝いをしたとき、生徒の中に後に彼の妻となる杉本ミツがいる。
その後、左翼運動で留置所に入れられ拷問を受けるなど、非合法活動の中の青春を送る…
いやー、これまで彼の存在すら知らなかったのが残念である。彼を知ったことをアーサー・ビナードさんに感謝しなければならない。8ページほどの栞に、ビナードさんが文章を寄せている。その一部を紹介すると
「在日二年目にして、菅原克己の詩に遭遇。……外連味のない日常を、実況中継するかのように詠み、でもその奥で息づく森羅万象にまで読者をグッと、優しく引き込む。惜し気もなく、詩の神髄を差し出してくれる菅原克己に、ぼくは書き手として目標を見つけた…」
先日、ビナード氏の文章を評した「外連味のない」という言葉を、彼自身が菅原克己の文章に呈しているのも興味深い符合であろう。
まだぱらぱらと拾い読みの段階だが、早くも菅原克己の親しい語り口に惹かれはじめている。とりあえず別の詩集の表題にもなっている「陽気な引っ越し」を紹介しよう。
荷物をまとめ終ると
いつもチャーハン、とくるのが
ふしぎだな。
おや、変なところから
出てきやがった
古いラブ・レターのひと束。
ブランコにジャングルジムの
裏の児童公園とも、お別れだ。
さらば、オー・マイ・ベビイ。
気をおとすなよ
同志児童諸君。
もう一ぺん、
見知らぬところをまわってこよう。
羽かざりをつけた
インディアンの一隊が
夕陽の地平を駆けてゆき、
わがゆくところは
金網にかこまれた新天地、
腰に拳銃の
護衛つきだ。