確か袖珍版(あるいは判)という言葉があったはずなのだが、どの国語辞典にもそんな言葉は出ていない。ネットで検索すると、中国語のホームページらしきものが出てきたが、中国語の分からない私にはお手上げである。ただそれがヒントになって、もしかすると漢和辞典にはあるかも知れない、と「袖」という漢字で引いてみると、「抽珍」という言葉が出ていた。えっ、チュウチンと読むのではなくシュウチンと読むのか。道理で出ていないはずだ。意味は、袖に入れて持ち歩けるほどの小型の書物、袖珍本と出ていた。そうか袖という漢字はチュウではなくシュウと読むのか。思い込みというのは恐ろしい。
いや、なぜそんな言葉を思い出したか、というと、本棚の隅から二冊の豆本が出てきたからである。横6センチ5ミリ、縦12センチの小型本。むかし本屋さんなどで時おり見かけた福音館書店発行の「古典全釈文庫」の『伊勢物語』(大津有一著、一九六三年、第八版)と『徒然草』(山口正編著、一九六四年、二十三版)である。見返しに「昭和四十年三月、於広尾町求む、幾太郎八十五才、と毛筆で書かれている。豆本ながら上段に原文、下段に現代訳があり、欄外に語彙説明がなされた本格的な古典叢書である。
幾太郎、私の母方の祖父安藤幾太郎である。広尾町といえば十勝の太平洋に面した港町である。八十五歳の祖父がいまだ寒さの厳しい三月、なぜそんなところにいたのだろう。親戚の誰かが住んでいたのだろうか。というのは、それから三年後の四月六日には、宮城県山元町の国立山下病院で帰らぬ人となるからである。
ともかく八十五歳の老人が、寒い港町の本屋で、袖珍本ながら古典の注釈書を二冊も買い求め、読もうとしていたのは、さすが(?)我が祖父と誇りに思いたいのである。『伊勢物語』の方は、ところどころ、そして最後まで赤鉛筆の印が入り、確かに読み通したようである。『徒然草』には印はないが、しかしその汚れから、明らかに読んだ気配の感じられる箇所がいくつかある。たとえば第十八段。
人は己れをつづまやかにし、奢(おごり)を退けて、財(たから)を持たず、世を貪(むさぼ)らざらんぞいみじかるべき。昔より、賢き人の富めるは稀なり。…
福音書の説く清貧の勧めより、この兼好法師の言葉は胸にストンと落ちますな。いっときドイツ文学者中野孝次の『清貧の思想』が話題になったことがある。兼好法師など清貧の思想は日本精神史を貫く大きな流れのはずだが、この私めをも含めて、現代日本人はまたなんとその流れから遠く離れていることか。
下の部屋に祖母が使っていた飾り箪笥があり、その上段に確か幾太郎の小型の博文館当用日記があったことを思い出して持ってきた。昭和四十二年版と四十三年版である。四十二年の九月二十四日のところには大鵬全勝優勝、二十六回目の優勝などと書かれている。
十月二十九日(日) ハレ 下痢してひどい目に遭ふ タレモコズ
十二月七日(木) クモル 朝オモユ食す 今日千代丈クル 千円カリル 仁コナイ
このあたりに時々私の名前も出てくる。そうだ、私が修道生活を切り上げて相馬に戻ったのがこの年の十一月だった。思い出した、このころ、祖父は家の近くのY病院に入っていたのだ。そしてそれからまもなく、坂下に移り四月六日に死んだわけだ。だから四十三年版の日記にはほとんど記載が無く、三月五日のところに「マジック二本買う」、とあり、それで書いたらしい大きな太い字が残っている。三月九日(土)のところには「千代一人くる」とあり、それ以外の字はもはや判別不可能なほど乱れている。
私が死ぬ前、さてどんなことを書き残すのだろう。八十八歳の祖父が、最後の最後まで何かを書き残そうとしていたことに改めて敬意を表したい。その意味で、『伊勢物語』最後の項に赤印がついているのも三年後の死を予感してのことか。
百二十九
むかし、男、わずらひて、心地死ぬべくおぼえければ、
ついにゆく道とはかねて聞きしかどきのふけふとは思はざりしを