島尾敏雄の作品に以前から気になっている短編がある。雑誌『近代文学』の昭和三〇年(一九五五年)一月号に発表された「肝の小さいままに」である。同名の題を持つ一作だけを残して亡くなったW. Wという小作家の家を、逆断層が奇妙な風景を形作っている平野という町に訪ねていくといういささか謎めいた小説である。同時期に書かれた「川流れ」などと同じく、「死の棘」の淵へと次第に巻き込まれていく直前の心象風景を色濃く反映した作品だ。
「一人の老年の男の入りくんだ愛欲を描いた」作品になぜこうまで惹かれるのか。「彼は未燃焼のエネルギーのまま死んでしまった。彼は影響を残さなかった…ぼくは絶望し、そのあげく、彼の遺族を見ようと思ったわけだ」。そしてこんなことを考える。「W. Wについてのあらゆる世俗の資料を蒐集しつくすという作業の中で、ぼくは自分の後半生を使ってもそんなに悔いはしないようにさえ思えたのだ」。
この作品がなぜ気になったのか。簡単に言えば、これはW. Wとういう架空の作家に仮託して、島尾敏雄自身の未来を、つまりそのまま進めばとうぜん彼を見舞うはずのカタストロフィーを想定した作品ではないか。さらに言うなら、わずかな作品を残して破滅的な生を閉じた自分を、もう一人の自分が、あるいはもっと一般的に、将来自分の作品を読んでくれるであろう読者のだれかが、尋ね当てる、あるいは尋ね当ててもらいたいと希求した作品ではないか、と考えるからである。
少なくとも私は、島尾敏雄は本来マイナー・ポエット(小作家)たるべきなのに、彼の意に反していつのまにかメジャーの位置に着かせられたのではないかと思っている。そして小川国夫もそうではなかったか、と。もちろんこの場合、マイナーとかメジャーは作家や作品のレベルや価値を言っているのではない。いうなれば、立ち位置のことである。脚光を浴びなくても、数少ない本物の読者の琴線を確実にヒットする作家がいるのではないか。
要するに、作家や作品といえども、現代のめまぐるしい物流というか、あるいは言葉本来の意味でのマスコミュニケーション、つまり不特定多数の人々に対する大量の情報伝達の影響から逃れることはできないということである。つまり作家や作品の立ち位置がそれによって大いに撹乱されているということ。
そんなことを、ここ数日のマイナー・ポエットたちの探索を通じて感じている。たとえば今日も、書庫の中から一人のフランスの小作家を発見した。フィリップ(Charles-Luis Philippe、1874~1909)である。貧しい人々の生活を温かい共感をもって描いた作家だが、本国フランスより一時期の日本で多くの愛読者を獲得したらしい。見つけたのは、古びた三冊の文庫本である。『小さな町』(小牧近江訳、河出市民文庫、1953年)、『朝のコント』(淀野隆三訳、岩波文庫、1967年、3刷)、そして『傑作短編集』(山田稔訳、福武文庫、1990年)。最後のものは、前の二冊に収録された作品から選んで訳された短編集である。アンドレ・ジッド、フランシス・ジャム、ヴァレリー・ラルボーら錚々たる作家・詩人たちに認められながらも、彼の作品は生前も死後もフランスでは多くの読者を得ることができなかったそうである。ここに翻訳されたコントなどは、テクストの入手すら困難だということだ。
ともあれ、マイナー・ポエットへの偏愛は、島尾敏雄だけのものではなく、この私にも確実に受け継がれている。その証拠に、先ほどから「日本の古本屋」で見つけた『フィリップ全集』全三巻(1952年、白水社、絶版)を注文すべきか断念すべきか、何時間も迷っているではないか。
マイナー・ポエットとは何かを考えていて、芭蕉の句を思い出した。
山路来て なにやらゆかし 菫草
【息子追記】立野正裕先生(明大名誉教授)からいただいたお言葉を転載する(2021年3月12日記)。
マイナー文学について、あるとき大西巨人さんと語り合ったことがありました。おもにカフカをめぐってだったと思います。
フィリップに心引かれた時期が二十代のころわたしにあって、いまにして思うと滑稽な話ですが、フィリップとバルザックを並べて、自分は前者の側を尊重するのでなければならないと友人との文学談議で発言していました。同様に、O・ヘンリーとホーソーン、ギッシングとディケンズ、ガルシンとドストエフスキー、シュトルムとゲーテ、といった具合にマイナーとメジャーを並列して前者の文学こそ重視されなくてはならない、そのゆえんを力説していたものです。
たぶんウィリアム・モリスの主唱したマイナーアーツの思想、装飾芸術論の誤解に立った理屈を振りかざしていたのでしょう。のちに「無名性」の観点から、もう少しましなことが言えるようにはなりましたが。
いずれにせよこの論題についても、佐々木先生との対話をつうじて自分のマイナー・アーツの考え方を深める契機にはなったにちがいありません。