絶えず新天地を求めて

それから間もなく長男・博が誕生。

    子守連れ 岩山(トンネル)くぐり 朝夕を
       女教師我は 勤めはげみぬ
    誕生日迎える頃は すくすくと
       義弟も姑母(はは)も 吾子と楽しむ

 岩山のトンネルがどこを言っているのか分からないが、兄の子守をしてくれた方は、後に一家が北海道から小高に再移住したころはまだご健在だったことをぼんやり覚えている。ここでもう一つ初めて知ったのは、義弟というのは父のすぐ下、というより十一人兄弟の末子・直叔父のことだと分かるが、佐々木の方の姑、つまり私にとっては祖母に当たるモト(明治二年<1869年>生まれ)がそのころまだ生きていたらしいということである。

    吾児は二歳 夫は心ひそかにも
       北海道行きを心に決めたり

 これはもう歌というよりメモだが、おかげで事実関係がはっきり分かる。すでにばっぱさんの家族が移住していた十勝に自分たちも行こうと言い出したのが父だということも、ここで初めて知った。

    はるばると津軽海峡渡り行き
       父母います家に安らふ

 「十勝の春」というタイトルの元に四つほどの歌が続くが、それによると「ようやく押さえ立ちする吾児の世話」を祖母に託して、夫婦はそれぞれ別れて任地に赴くとある。父は御影小学校、母は芽室小学校に。母の芽室小学校時代の教え子とは最近まで交流があったが、父の御影小学校については今まで何も調べたことがなかった。御影などなんだか関西っぽい名前(神戸市東灘区に同名の場所があるそうだ)が印象に残っていただけだ。父は相馬からもっと広い北海道を選び、ついでさらに広く大きい満州を夢見たのはなぜか。いつか御影小学校を訪ねなければなるまい。
 ばっぱさんの歌日記の次のタイトルは「渡満」となっている。

    三人目の出産の月八月に
       夫は単身満州に発つ(十四年)

 つまり私が生まれたとき、父はすでに満州に単身渡っていたのである。

    新婚の弟夫婦と子供達と
       迎えに来たる夫と連れ立つ(十六年四月)

 これは博多から私の家族と叔父夫婦が満州に渡るとき、博多まで父が迎えにきたことを言っている。ちょうどそのとき博多飛行隊にいた健次郎叔父と、九州帝大に通っていた(島尾)敏雄さんが壮途を祝ってくれた。記念写真が残っている。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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